≡ヴァニティケース≡
それに恨みならば尚更、美鈴に心当たりはなかった。前の職場で辣腕こそ振るってはいたが、人間関係には特に気を配っていた。加えて再就職した際に全く良い所がなかったのだから、同僚たちは少なからず溜飲を下げていたことだろう。
「いきなり切り付けられる覚えなんかない」
歩を緩めた美鈴はそう呟いてかぶりを振ったが、胸には釈然としないものが残されていた。
「兎に角、早く用事を済ませて帰ろう」
そして美鈴は周囲を見渡したが、目出し帽男の姿はおろかパーカー男の姿さえない。先ほどよりは市街地に近付いたらしく、帰宅途中の人影もちらほら見える。
「ここまでくれば……」と安心した美鈴は、見覚えの有るその道を、文具店に向けて歩き出した。
だが、買い物を済ませて部屋に戻っても、美鈴の心には依然として引っ掛かるものが有った。勿論あの時覚えた顫動センドウも、まだ背筋にひんやりと留まっている。目出し帽男のシルエット、光を集めて闇に浮かぶ白刃。それで無事だったのが不思議な位だ。