≡ヴァニティケース≡

「どうもお邪魔いたしました」


 美鈴はぺこりと頭を下げ、結局は契約書に判を捺させることなく生徒の家を後にしてしまった。


 親は「暫く考えさせてくれ」とは言っていたが、このケースが後々契約に繋がる可能性は1割にも充たない。子どもの成績に関心は有っても、現実に大金が掛かるとなれば、誰でも二の足を踏むものだ。とりわけ平凡な日常の信奉者には、大金を出させる業者が悪人に見えたとしても致し方ない。


「良いアポだと思ったのになんのことはない、全くの無駄足だったわ」


 どうやら絶好の獲物を逃してしまったらしい。こうなっては喫茶店で反省会を始めるしかない。


 褐色で満たされたカップにこれでもかと砂糖を放り込み、ミルクピッチャーからありったけのミルクを投入する。口臭を気にしてデモ前は飲まないようにしているコーヒーを睨み、さながらストレスの捌け口にするかのように乱暴な手付きで掻き混ぜた。



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