≡ヴァニティケース≡

 この日の夜、美鈴は或る男と会う為、数日振りに家を出た。約束の場所へと歩きながらも、やり場のない怒りがこみ上げてくる。


 世の中というものは全て、個人の都合に依って構成されているのではないだろうか。例えば企業の意思とは、すなわち経営者や担当者の意思だ。家族の決定とは家長の(勿論、家庭によって主は違うが)決定に他ならない。誰かとの関係がどうでもよくなるタイミングは、相手がどうでもいい存在となる時期と一致している。愛が世界を動かしていると言わんばかりの流行歌は、しかし多くが金に困らなくなったミュージシャンに依って紡がれている。日の目を見ない愛の歌は、おおむね大多数の意思に反しているからだ。経営も政治も音楽も絵画も小説も、人は自分の見たいものだけを見て、聞きたいことだけを聞く。自分に都合の悪い考えに協力する者はいない。


 だが、それはそれでいい。人とはそういうものだ。他者と不幸を共有出来るだなんて、そんな言葉はまやかしだ。人は昼間、誰かの不幸に涙しても、夜にはおいしいご飯に舌鼓を打てる。平気で料理を味わえるのだ。一見それは『ひとでなし』のようにも思えるが、それで間違いではない。それが人なのだ。全ての不幸を全ての人間で共有したら、人類は不幸の連鎖で共倒れしてしまうからなのだ。



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