貴方に愛を捧げましょう
階段を降りると、人気(ひとけ)のない一階の廊下にあたしの足音が静かに響く。手首を掴んだままの彼の足音は一切しない。
取り敢えず台所のある部屋へと向かおうとしたけど……やめた。やっぱりお腹空いてない。
彼が今何を考えているのか分からないけど、振り返って見上げてみる。どうにか“あなたにとっては”肝心であろうことから気を逸らしてくれないだろうか。
「ついて来なくていいわよ」
「……っ」
美しい相貌が切なく歪む。それでも引き下がるつもりはない。当の本人が平気だって言ってるんだから。
「ちょっと、過保護すぎると思わない?」
「大切な者と離れて、私は長い時を悔いてきた。次貴女の御側を離れるとあらば…──!」
手を伸ばして整った薄く蠱惑的な唇を塞いだ。
「あなたの過去に何があったのか、今のところ訊くつもりはないけど……ずっと傍に居続けるなんて、現実的に考えても無理よ。解ってるでしょう」
彼の口を塞いだ手が取られる。彼の大きくしなやかな手に包まれて、ふと自分があまりにちっぽけに感じた。
「私以外の誰の目にも触れないよう、この腕の中に閉じ込めてしまいたい……と伝えれば、貴女は解って下さいますか…?」
「そうね、気持ちは伝わった。……けど、しないでしょう。あなたって優しすぎるから」
胸元に強く引き寄せられて、噎せ返る程に甘く薫る彼の匂いにあてられそうになる。
彼の言った事に猟奇的な様を感じても、恐れを感じることはない。だからこそ懸命に皮肉めいた笑みを口元に浮かべようとした。
「貴女の総てがとても……とても、いじらしくて」
ひねた笑みを浮かべる唇の端に落とされた羽根が触れるような柔らかいキスに、なんだか咎められているような気がしてくる。
「愛しくて……堪らない」
どこか諦めたような、そして落ち着いたような表情にふっと身体を弛緩させた。
否定するつもりはない。空腹を滅多に感じないこの身体は、心地よい彼の温もりだけを素直に求めている。
あなたに体温を分けてもらって、少ししたら学校へ行こう。
「──…何か、口にされますか?」
「……、食欲ない」
意図を見透かされたように思えて、彼の胸元に額を押し付けて項垂れた。
「無理矢理何か食べたって戻すだけだから、無意味よ」
「嘔吐感がお有りで…?」
「ない、けど……っ」
言ってしまってから、自分が発した言葉に矛盾している事に気付いてしまう。もう、やってられない。
「ちょっと屈んで」
らしくない自分に何だか無性にやきもきしてしまい、手を伸ばして彼の項に掌を当てると頭を引き下ろした。
こんな事を思い付いた自分にも驚きだけど、でも。
「──っ、ん……」
「由、っ……!」
白い陶器のような首筋に顔を寄せ、軽い力で、けれど少し歯が食い込む程度に、そこを噛んだ。同じ所を少しだけ舐めて、ゆっくりと離れる。頬を彼の髪がするりと掠めた。
痛みはないはず、だけど充分驚かせられたらしい。彼の身体が固まっている。
「これで勘弁して。晩ご飯は、必ず何か食べるから」
この瞬間の葉玖の顔は、当分目に焼き付いて忘れられないと思う。