闇夜に笑まひの風花を
「俺としては、君が知っていたことの方が驚きだよ。君が思い出すことは、二度とないと思ってたから」

しれっとかわす彼から目を背けて、杏は小さな声で言い返した。

「思い出したからじゃないよ……」

杏の指が服の裾を握って、震える。
その手を遥が包み込んだ。

「うん。聞いたよ、兄上にいろいろ言われたからだよな。
まさか、兄上と内緒で何度か会ってたなんてなぁ……。だから時々不安定になってたんだな。
兄さんが仕掛けてくるなんて、予想外だったよ」

そうして、遥は杏の髪を梳いた。
泣きそうな笑み。

「余程、兄さんは君を好きらしい……」

同じことを裕の乳母に言われたことがある。
けれど。

「ねえ、どうしたらそういう発想になるのか、私には全然わかんないの。
どっちかと言うと、私は裕様に憎まれてると思うんだけど……」

「うん。兄さんは君を憎んでる。でも、やっぱり好きなんだよ」

「……分からないよ……」

憎んでいるのに好きだなんて、矛盾にも程がある。
それとも、杏が裕のことをあまり知らないからそう思うのだろうか。

俯く杏の髪を遥は幾度も梳く。

「うん、そうだろうな」

泣きそうに顔を歪めて、それでも口元は微笑を刻んでいる。
そんな彼が哀しくなって、杏は遥を見上げる。

「説明、してくれないの?」

「ダメだよ。これ以上は話せない」

どうして裕が彼女を憎んでいるのか。
どうして裕が彼女を好いているのか。

疑問は答えを得られず、杏の中で宙ぶらりんになる。
それでも遥の哀しい笑みを見ると、何も言えない。

赤銅色の瞳には、まだ優しさがあったから。

この先は、君を傷つけるだけだから。
思い出さないのなら、知らなくていい。

まるで、そう言われているようで。
何も、言えなくなる。

遥は見つめ合う彼女の額に口づけを落とした。
そして、視線を交える前に、彼は杏に背を向ける。
彼は一度も振り向くことなく、さっさとドアまで歩いていった。

その素っ気なさに寂しくなりながら、杏は縋るようにその背に声を掛けた。

「ねえ、どうして、杏って呼んでくれないの……?」

それはあまりに、切ない問いかけ。

遥はドアの前で一瞬足を止めた。
彼は振り向かなかったけれど、笑った気配がした。

「この城に居た頃の君は、『坂井杏』じゃないからだよ」

そんな一言を残して、遥は部屋から出て行った。
杏はその場に立ち尽くす。

ただ、ひたすら彼の居なくなったドアを見つめる。
頬に雫が伝い落ちて、初めて自分が泣いていることに気づいた。
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