闇夜に笑まひの風花を
*****

時は深夜。
調べ物をしていたらついうっかりこんな時間になってしまった杏は、欠伸をしながら早足で自室に向かっていた。

「遥様ぁ」

甘ったるい声。
その声に杏は思わずぴたりと足を止めた。

那乃だ。

昼でも人通りの少ない廊下は、夜は全くの無人となる。
だから、まさか人が居るとは気づきもしないようで、逢引の場所になっているのだろう。

「あん、もうつれないんだから。
いいじゃない、キスくらい。前にもしたことなんですし」

杏の自室は彼らの居るところを通らなければ辿り着けない。
いっそ突っ切って行こうかとも思ったが、足は進もうとはせず、身体は影に身を潜めた。
盗み聞きなんて趣味ではないが、身体が杏の意思に反した行動を取るのだからどうしようもない。

「一宮嬢、 あなたは兄上の婚約者でしょう?」

「今は、ね?
私、裕様より遥様をお慕いしているんです。
ねえ、遥様。一度だけで良いんです。私に一夜の夢を見させてください」

那乃の声が耳に纏わりつく。
気持ち悪い。

「あなたのは刷り込みです。それは恋じゃない。そんなことをして、傷つくのはあなたですよ?」

わずかな沈黙。
勢いを削がれた那乃が次に発した声は、狂気に満ちていた。

「……あの女ですか?あなたが私を受入れてくださらないのは、あの女の所為ですか?
身分の違いも知らない、あの女のどこが良いのです?私の方が__っ」

「一宮嬢。あなたがそうやって彼女を否定するほど、私にはあなたに優しくする気力がなくなっていくことに、どうして気づかないのです。 
好きな人を否定する人に、惹かれるはずがないでしょう?」

それに、あなたは思い違いをしている。

そんな言葉を残して、遥は去っていった。
杏の身を隠す角を曲がらず、彼女に気づくこともなく。

那乃はしばらくそこに突っ立っていたようだが、やがて足音高く歩き出した。
杏は彼らの声から逃げるように耳を塞いでいたから、那乃の足音が近づいているのに気がつかなかった。
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