闇夜に笑まひの風花を
杏がその瞳で彼を睨みつける。

「殿下。お戯れもいい加減になさいませ」

そんな彼女に、裕は苦笑する。

「婚約者の蜜事など、誰も咎めぬ」

「そういうことは、那乃としてください。私は、あなたの婚約者ではありません」

裕は杏の髪に指を絡める。
ゆったりと瞳が細められた。

「忘れているだけだ。
お前は、私の婚約者だった」

その台詞に杏は衝撃を受け、驚愕する。
裕の手を叩き落した。

「そんなバカなっ!
私は遥の遊び相手だったと__」

「ああ、そうさ。お前と遥は生まれたときから共に育った。歳が近かったからな。
だが、お前が遥の婚約者になるわけにはいかなかった。
何故だか分かるか?」

この城で、小さいときから一緒にいた遥と杏。
遥の遊び相手として、杏は常に傍に居たという。

庶民の杏には婚約者など想像もつかない遠い次元の話だったが、
もし王子のどちらかと婚約しなければならない状況だったとしたら、十中八九相手は遥だろうと思う。
でも、遥ではいけないという。

その理由は、杏には到底分からなかった。

急すぎる状況に当惑する杏に、裕は続ける。

「私とお前の婚約は、当時まだ実権を握っていた祖父が取り決めたことだ。
祖父は、お前の血を警戒していた。その気になれば王位を奪える血だからな。
王家に反発する輩の陰謀で、何処の馬の骨とも知れない男と結婚し、血を利用される前に、悠国とアミルダ国の血を混ぜてしまおう、という策略だろう。
それから、お前は人質としても利用されていた。大切な一人きりの姫を悠国の王族に加えて、アミルダが手出しできないようにってことだ」

幼い頃の記憶のない杏に、王族としての自覚は皆無だ。
だから、こんな道具のように言われることに慣れていなかった。

裕は懲りもせず、杏の肩に落ちる琥珀の髪を梳く。

「そのためには、王位を継ぐ私の妻となり、妃にならねばならなかった。
だから、遥ではいけなかったのだ」

アミルダ国の人々の反発を抑えるために、杏は悠国の妃にならねばならなかったという。
その事実は、自らの誇りに従って生きると決めた杏には、到底受け入れられないことだった。
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