闇夜に笑まひの風花を
「そういえば、杏」

翡苑の部屋に行く間、晃良に話し掛けられ、今彼が取り掛かっている呪術の呪文構成について相談され、杏は幾つか意見を述べる。
すると、晃良は散々探していたものを急に目の前に出されたときのような顔をし、妙に納得した。

「ああ、なんだ。ここでザファテの第三則に則って展開したら良いんですね。なるほど。
……すごいや、杏。まだひと月しか経ってないのに。もう僕が教えられることってないんじゃないかな」

晃良は情けないというように笑う。
けれど、杏は謙遜せずにただ苦く笑っていた。

杏は呪術に関する記憶はないが、どれもどこかで聞いたことのあるような理論だった。
つまり、杏にとってこの一ヶ月は勘を戻していた、くらいなもの。
全く知らないことを覚えるより、何度か繰り返し聞いていたことを覚えるのとでは、理解のスピードが全然違うのと同じだ。

杏は別に天才ではない。
忘れていながらも、生まれてから毎日呪術に携わっていた積み重ねが、どこかに残っているだけだ。

翡苑の部屋の前で、晃良に礼を言われて別れた。
晃良はこのまま書庫に行くのだろう。

彼のおかげで、脳の動きが活発になった。
そのことに内心で礼を言いながら、杏は溜息を吐く。
そして、扉をノックした。
すぐに応答が返ってきて、扉を開け、きちんと閉めてから言葉を発する。

「翡苑さん。昨日はすみませんでした」

杏が丁寧に頭を下げると、翡苑は手を止めて彼女を振り向いた。

「いいえ。それより、体調は?手は痛みますか?」

手のことを出されて、彼が昨夜のことを知っていることに気づく。
不甲斐ない。

「……私は大丈夫ですよ。
それより、ハルと会ったんですか?どうでした?」

心配してくれる人には悪いが、杏は自分のことはどうでも良かった。
今更、自分を可愛いだなんて、思えない。

それよりも心配すべきは遥だ。
昨夜、杏は彼の首を締めたのだから。
そして、心配はしても彼には合わせる顔がなかった。

翡苑はそういうことをすべて分かっているみたいに、微笑んだ。

「お元気そうでしたよ。
喉も痣にはなりませんでした」

もともと、女の非力な腕では痣が残るほどの力もない。
分かっていながらも、杏はほっとする。
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