闇夜に笑まひの風花を

彼女が病室に来たのは、その日の午後。
太陽が天頂に上る頃。
ひょっこりと顔を出した彼女の名を、小さく呼んだ。

「早紀(さき)……」

それは、裕の乳母の名前。
今は針子をしているという、あのときの侍女だった。

早紀は少しだけ苦笑すると、ベッドに近づき、目を細める。

「お久しぶりです」

アンジェ様、とは言わなかった。
けれど、秋の舞踏会とは異なり、口調が敬語になっている。

「新年の舞踏会の衣装を採寸しろ、と殿下から仰せつかったのですが……」

早紀の瞳が揺れる。
その奥に隠されているのは、憐れみだろう。

彼女は杏の両親や都夕希の死に纏わることは知らなくても、彼らの死は知っている。
そして、杏がアミルダの血を引いていることも知っているのだ。

「私は大丈夫よ」

ベッドに身を横たわらせ、腕に点滴の管を刺したまま、杏は笑って見せた。
けれど、それが更に痛々しさを誘うことにも、彼女は気づいていた。

知っていても尚、それを行動に移す杏に、早紀はふるふると首を振る。

「いいえ。先にお身体を治してくださいませ。無理をしすぎると、本当に身体を壊しますよ」

痩せた杏に触れようとして、戸惑う彼女の指に杏は手を伸ばす。
見上げる表情が泣きそうに歪んでいた。

彼女が何に怯えているかは分かっていた。
都夕希も玲香も杏の両親さえ、死んでしまった。
もう喪いたくないと思うのは当然のこと。

けれど、杏にだって譲れないものはある。
今は時間が惜しい。

「ねえ、早紀。今、終わらせてしまいましょう?」

杏の声は宥めるようだったが、その台詞に早紀の肩が震える。
戸惑いや心配、不安に揺れた瞳に、杏は微笑む。

「まず、色はどうしようかな」

早紀の心を置き去りにして、杏は無理やり話を進める。
それに答える彼女は泣き笑いを浮かべていた。

「殿下から、白と生成り色の布を預かっております。新年の主役が使える色は、白と青に限られていますから」

二色に限られているのに、裕が生成り色を用意したのは細やかな気遣いだ。
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