闇夜に笑まひの風花を
*****
「よろしいのですか、お席を外して」
初めてこの城に来たときと同じように、彼の自室でソファに腰掛ける裕を前に、杏はそう尋ねた。
しかし、尋ねた割にその声音に心配の色はない。
「構わん。王はまだ父だからな。少しの休憩くらい問題ない」
裕はソファに背を預け、上機嫌に笑った。
「さすが、見事だったよ、お前は。これでもう父上も疑えない」
彼の右手が上がり、杏の髪の先に触れる。
瞳が一瞬揺れて、それを隠すように彼は目を細めた。
「__少し、やせたか…」
不安そうに震えた声を誤魔化すように、まあそれも道理か、と嘲るように笑う。
「どうだ、術の進み具合は?」
杏の左手が無意識にアレキサンドライトのペンダントを弄る。
「はい、もう目処は立っております。あと一月もせずに完成するでしょう」
するり、と淡紅色の髪が彼の指から滑り落ちる。
裕はどこか寂しそうに瞼を伏せた。
その赤銅の双眸は、彼女の手首を飾る生成りを見つめた。
「術が完成した暁には、私が立ち会う」
唐突なその言葉に杏は目を瞠り、思わず一歩後退る。
視界から消えた生成りの飾りを追うように、裕は杏を見遣る。
ふるりと震えたそれは、怯えを表していた。
「何故です?
__監視、ですか?」
裕はただただ、彼女を見上げる。
すると、杏の顔が泣きそうに歪んだ。
「また、王の命令、ですか?」
「違う」
彼女が何を想像して怯えたのか、容易に想像がつく。
その表情に弾かれたように、彼はそれを否定した。
しかし、杏は聞く耳を持たない。
引いた足を一歩踏み出して、
「都夕希さまは、それで命を落としました。あのときと、目的は同じです。また失敗する可能性は皆無ではありません。あなたは…っ」
彼女は、切実に訴える。
「そんな危険に身を晒す必要などありません……っ」
叫ぶように言い切った杏は、そのまま顔を俯ける。
しばらく顔を上げない彼女が泣いているのかと思ったが、肩は震えていないし、そんなそぶりはない。
顔を覆い隠す髪に、裕は手を伸ばした。
その口元は、柔らかな微笑を浮かべている。
嬉しい、と言ったら、お前は怒るだろうか。
死ぬ気など毛頭ない。
否、死なせるつもりなど、ない。
零れる髪に、口づけを贈る。
都夕希は、彼らの仕事を見張っていた。
否、あの母のことだ。
見張っていたと言うよりも、心配していたのだ ろう。
ならば、俺が彼女を見守ることも、許されるだ ろか。
そして、その白い顎を指で上向かせ、視線を合わせる。
杏は瞳を揺らしながらも、彼を見つめた。
「二十四年前、アミルダが何故滅びたのか知っているか?」
またも唐突な裕の話に彼女はしばし沈黙し、やがて淡々 と知っている範囲で答える。
「隣国が攻めてくるらしい、との情報を得て、 最高呪術師総勢でひとつの召喚術を組み立てま した。しかし、それは不相応な術で、些細な間 違いがあの悲惨を生んだのだと、聞き及んでい ます」
完全なる鎖国を為していたのは、国土一帯を囲 む大きな不可侵の結界だ。
それを保っていたのは、城に住み込む最高呪術 師たち。
裕は深い溜息を溢した。
「……そうだな。
王は互いにまだ祖父母が務めていた時代だ。
鎖国状態だったアミルダに我ら悠国が攻め入ろうとしたのだ。我らに対抗するため、アミルダは術を開発しようと急いだ。その結果、大爆発を引き起こした」
杏は唇を引き結ぶ。
「アミルダの城は半壊。当時、術を施行した者たちは殉職。国を覆っていた結界は消失。悠国の兵はなんなく侵入を果たした。
国力を失ったときに襲われては、何も反抗できなかったらしい。我らは楽に民と土地と、捕虜(ちから)を手に入れた」
いつもなら、にやりと笑う場面なのに、裕は杏を見上げ続ける。
そうだ、不思議だったのだ。
何故、呪術を紛い物だとバカにする彼らが、呪術を求めたのか。
何故、彼らが召喚の術を使おうとしたのか。
「呪術を否定する我らが、国民に隠して城に捕虜を置いたのは、我らと対峙するときに使おうとした術を完成させるためだったのだよ。
祖父は、それが可能ならば、やってみろと言っ た。 祖父にとって、それは捕虜を生かすか殺すかの 判断材料だったのだろうな。役立たずを受け入 れるほど、祖父は優しくない」
それでも、機会を与えたのは温情だ。
「しかし、それも失敗したあげく、民を逃がしてしまったがな」
「……え?」
彼女は目を見開いて言葉を失う。
いま、なんて__。
「今、この国にはアミルダの民はほとんど居ない。お前も、市街で会うことはなかっただろう?
呪術を否定するこの国は、どうも居心地が悪かったらしい。当然だがな。
術の開発に十一年もの歳月が必要だったのは、どうやらその逃亡計画の方だったらしい。我らがアミルダを襲うと計画をして、それがそっちに気づかれるまでも時間差はあったはずだし、そこから術を開発するにしても、十年もない」
確かに、と杏は頷く。
闇を召喚したあの術……。
開発に携わったのは、当時のエリート十数名。
いくら二十四年前に優秀な呪術師をたくさん失ったからと言え、開発にかかる時間は多く見積もっても三年。
その代わり、数百の人を移動させるとなると、必要な動力は半端ない。
それを補う力の確保、術の補強、場所の確定…等。
やらなければならないことは目白押しの上、時間も掛かる。
しかし、逃げると言っても一体どこに……。
それに考えを巡らせようとした瞬間、裕の苦笑が目に入り、思考が停止した。
瞬きすらできぬまま、彼を見つめる。
じっ、と赤銅色の瞳から情報を得ようと探るのに、苦笑するその瞳は王子らしく、悟られぬよう凪いでいた。
けれど、それが答えでもある。
彼は知っていたのだ。
知っていたからこそ、もう追えぬと諦めているのだ。
もしくは、追わぬと決めていたのかもしれない。
少なくとも、彼女には分からない。
民を逃がして、ティアを喪って……何故に悠国はアミルダを求めたのか。
呆然と、ただただ自分を見つめる杏を一瞬目を細めて見ると、裕はその白い頬をそっと撫でた。
良質の絹が肌を撫でる感触に杏は我に返る。
「どうして……?」
揺れる瞳。
消え入りそうな声。
「また、失敗するかもしれないとは考えないの ですか」
責めるような言葉。
強がりな彼女が、初めて見せた弱い光。
それに、裕はにっと口角を上げて微笑んだ。
「俺を殺したいのなら、そうすればいい」
彼の指が目尻を掠め、杏は目を眇めた。
「……卑怯ですね」
違う。
その想いが純粋すぎて、辛い。
杏は手を伸ばし、彼の頬にそっと触れた。
「よろしいのですか、お席を外して」
初めてこの城に来たときと同じように、彼の自室でソファに腰掛ける裕を前に、杏はそう尋ねた。
しかし、尋ねた割にその声音に心配の色はない。
「構わん。王はまだ父だからな。少しの休憩くらい問題ない」
裕はソファに背を預け、上機嫌に笑った。
「さすが、見事だったよ、お前は。これでもう父上も疑えない」
彼の右手が上がり、杏の髪の先に触れる。
瞳が一瞬揺れて、それを隠すように彼は目を細めた。
「__少し、やせたか…」
不安そうに震えた声を誤魔化すように、まあそれも道理か、と嘲るように笑う。
「どうだ、術の進み具合は?」
杏の左手が無意識にアレキサンドライトのペンダントを弄る。
「はい、もう目処は立っております。あと一月もせずに完成するでしょう」
するり、と淡紅色の髪が彼の指から滑り落ちる。
裕はどこか寂しそうに瞼を伏せた。
その赤銅の双眸は、彼女の手首を飾る生成りを見つめた。
「術が完成した暁には、私が立ち会う」
唐突なその言葉に杏は目を瞠り、思わず一歩後退る。
視界から消えた生成りの飾りを追うように、裕は杏を見遣る。
ふるりと震えたそれは、怯えを表していた。
「何故です?
__監視、ですか?」
裕はただただ、彼女を見上げる。
すると、杏の顔が泣きそうに歪んだ。
「また、王の命令、ですか?」
「違う」
彼女が何を想像して怯えたのか、容易に想像がつく。
その表情に弾かれたように、彼はそれを否定した。
しかし、杏は聞く耳を持たない。
引いた足を一歩踏み出して、
「都夕希さまは、それで命を落としました。あのときと、目的は同じです。また失敗する可能性は皆無ではありません。あなたは…っ」
彼女は、切実に訴える。
「そんな危険に身を晒す必要などありません……っ」
叫ぶように言い切った杏は、そのまま顔を俯ける。
しばらく顔を上げない彼女が泣いているのかと思ったが、肩は震えていないし、そんなそぶりはない。
顔を覆い隠す髪に、裕は手を伸ばした。
その口元は、柔らかな微笑を浮かべている。
嬉しい、と言ったら、お前は怒るだろうか。
死ぬ気など毛頭ない。
否、死なせるつもりなど、ない。
零れる髪に、口づけを贈る。
都夕希は、彼らの仕事を見張っていた。
否、あの母のことだ。
見張っていたと言うよりも、心配していたのだ ろう。
ならば、俺が彼女を見守ることも、許されるだ ろか。
そして、その白い顎を指で上向かせ、視線を合わせる。
杏は瞳を揺らしながらも、彼を見つめた。
「二十四年前、アミルダが何故滅びたのか知っているか?」
またも唐突な裕の話に彼女はしばし沈黙し、やがて淡々 と知っている範囲で答える。
「隣国が攻めてくるらしい、との情報を得て、 最高呪術師総勢でひとつの召喚術を組み立てま した。しかし、それは不相応な術で、些細な間 違いがあの悲惨を生んだのだと、聞き及んでい ます」
完全なる鎖国を為していたのは、国土一帯を囲 む大きな不可侵の結界だ。
それを保っていたのは、城に住み込む最高呪術 師たち。
裕は深い溜息を溢した。
「……そうだな。
王は互いにまだ祖父母が務めていた時代だ。
鎖国状態だったアミルダに我ら悠国が攻め入ろうとしたのだ。我らに対抗するため、アミルダは術を開発しようと急いだ。その結果、大爆発を引き起こした」
杏は唇を引き結ぶ。
「アミルダの城は半壊。当時、術を施行した者たちは殉職。国を覆っていた結界は消失。悠国の兵はなんなく侵入を果たした。
国力を失ったときに襲われては、何も反抗できなかったらしい。我らは楽に民と土地と、捕虜(ちから)を手に入れた」
いつもなら、にやりと笑う場面なのに、裕は杏を見上げ続ける。
そうだ、不思議だったのだ。
何故、呪術を紛い物だとバカにする彼らが、呪術を求めたのか。
何故、彼らが召喚の術を使おうとしたのか。
「呪術を否定する我らが、国民に隠して城に捕虜を置いたのは、我らと対峙するときに使おうとした術を完成させるためだったのだよ。
祖父は、それが可能ならば、やってみろと言っ た。 祖父にとって、それは捕虜を生かすか殺すかの 判断材料だったのだろうな。役立たずを受け入 れるほど、祖父は優しくない」
それでも、機会を与えたのは温情だ。
「しかし、それも失敗したあげく、民を逃がしてしまったがな」
「……え?」
彼女は目を見開いて言葉を失う。
いま、なんて__。
「今、この国にはアミルダの民はほとんど居ない。お前も、市街で会うことはなかっただろう?
呪術を否定するこの国は、どうも居心地が悪かったらしい。当然だがな。
術の開発に十一年もの歳月が必要だったのは、どうやらその逃亡計画の方だったらしい。我らがアミルダを襲うと計画をして、それがそっちに気づかれるまでも時間差はあったはずだし、そこから術を開発するにしても、十年もない」
確かに、と杏は頷く。
闇を召喚したあの術……。
開発に携わったのは、当時のエリート十数名。
いくら二十四年前に優秀な呪術師をたくさん失ったからと言え、開発にかかる時間は多く見積もっても三年。
その代わり、数百の人を移動させるとなると、必要な動力は半端ない。
それを補う力の確保、術の補強、場所の確定…等。
やらなければならないことは目白押しの上、時間も掛かる。
しかし、逃げると言っても一体どこに……。
それに考えを巡らせようとした瞬間、裕の苦笑が目に入り、思考が停止した。
瞬きすらできぬまま、彼を見つめる。
じっ、と赤銅色の瞳から情報を得ようと探るのに、苦笑するその瞳は王子らしく、悟られぬよう凪いでいた。
けれど、それが答えでもある。
彼は知っていたのだ。
知っていたからこそ、もう追えぬと諦めているのだ。
もしくは、追わぬと決めていたのかもしれない。
少なくとも、彼女には分からない。
民を逃がして、ティアを喪って……何故に悠国はアミルダを求めたのか。
呆然と、ただただ自分を見つめる杏を一瞬目を細めて見ると、裕はその白い頬をそっと撫でた。
良質の絹が肌を撫でる感触に杏は我に返る。
「どうして……?」
揺れる瞳。
消え入りそうな声。
「また、失敗するかもしれないとは考えないの ですか」
責めるような言葉。
強がりな彼女が、初めて見せた弱い光。
それに、裕はにっと口角を上げて微笑んだ。
「俺を殺したいのなら、そうすればいい」
彼の指が目尻を掠め、杏は目を眇めた。
「……卑怯ですね」
違う。
その想いが純粋すぎて、辛い。
杏は手を伸ばし、彼の頬にそっと触れた。