闇夜に笑まひの風花を
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舞姫たちの舞が終わり、杏が広間から姿を消した頃。
遥は廊下の窓を開け、中庭を見下ろしていた。
首もとを寛げ、白い息を吐く。
「……はるか、さま……」
声をかけるのを躊躇うその背中に、まるで既視感のようにか細い声が掛けられた。
振り向いた先にいたのは、淡い色のドレスに身を包んだ葡萄色の少女。
話しかけるつもりで名を呼んだのではないようで、振り向いた彼にびくりと身体を震わせた。
「どうされたんです、一宮嬢。こんなところで」
あんなことをしたから当然だと思うが、いつも遥には険のある目線を向けられてきた。
どこか冷たさを感じる表情。
それが悲しくもあり、罪悪感を突きつけられる気がした。
しかし、久しぶりに会った彼は、怯える少女に表情を和らげてみせた。
それにほっとするのも束の間、当たり前のように呼ばれるその名が哀しかった。
「外は雪ですよ。お風邪を召されます」
どうしてと問われても、明確な答えを持っていない少女は、誤魔化すしかなかった。
泣きそうな顔を誤魔化すように笑う少女に、遥も力なく微笑みを返す。
「寒かったですか?すみません。
ですが、あなたとここで会うなんて、奇遇ですね」
後宮の入り口に当たる廊下。
なんの変鉄もない。
要領をつかめず、小首を傾げた少女の鉄色の髪を冷たい風がふわりと揺らして通り過ぎた。
遥はそっと目を伏せる。
「この奥の部屋が、那乃の部屋だったんです。
……ここで、婚約解消を言い渡しました」
そう、あれはとても暑い、真夏の日。
婚約解消を告げたとき、一宮那乃は臥せっていた。
『__っ、はるか、さま……っ』
告げるだけ告げて、逃げるように部屋を辞した遥を追いかけ、崩れそうな身体を必死に保つ彼女は、か細い声でその背を呼び止めた。
『那乃。そんな身体で走ってはダメだろう』
ちょうど遥と那乃の間の窓が開け放たれていて、生温い風を送り込んでいた。
『こ、婚約を解消って……。私、力不足だったんでしょうか?』
石造りの壁は気休め程度には冷たい。
そこに身体をもたれかからせ、荒い息を吐いて尚も、震える声で那乃は追い縋った。
『違うよ。ぼくの気持ちの問題だ。
ぼくの気持ちが中途半端なのに、君をしばりつけておきたくない』
『それでも私は構いません。許されるなら、あなたの傍にいたい。
それとも、私がこんな身体だから……ご迷惑なんでしょうか』
『迷惑じゃない。いつも言っているだろう。
でも、婚約解消をすれば、登城義務はなくなる。ゆっくり身体も休めれるはずだ』
勝手だった。
偽善だった。
彼女の次の言葉を知っていて、遥は慰めにもならないことを重ねる。
『私は、義務でいるのでは……っ。みなさまに、会いたいから……』
とうとう床に膝をつきそうになり、遥はその身体を支える。
それは持ち上げれそうに軽かった。
彼女を傷つけると知っていながら、婚約解消を言い渡したのは、単なる自己満足に過ぎなかった。
「ここへはよく来られるのですか?」
「いいえ。あなたに呼ばれて、初めて思い出しました。薄情な男です……」
小さな彼女より、共に育った少女の方が大切だった。
幼い恋心より、弱い心の方が大切だった。
そんなひどい仕打ちをしたのだから、恨まれて当然だ。
自嘲を含み苦く笑う遥に、少女は一歩足を進めた。
手を伸ばせる距離に近づいたのに、少女は儚げに笑うだけ。
「大丈夫ですよ、遥様。那乃様はあなたを恨んでなどいませんでした。
最期まで、あなたに恋をしていたのです」
昨夜も杏に伝えたこと。
もっと早く勇気を出して日記を読んでいれば、こんなにも彼らを苦しめることもなかったかもしれない。
大切な友を傷つけることもなかったかもしれない。
過ぎ去ってしまったことだけれど、そう思うと少し苦しい。
伸ばせれない腕を、触れられない手を、じっと見つめる。
ずっと守られ、皹一つもない手。
この手で守れるものがあるかもしれなかったのに。
「私はずっと杏が羨ましかった。どうして私じゃいけないのかと、どうして他人のふりをして生きなければならないのか、と。ずっと隠していたけれど、羨ましくて……」
やがてそれは少女の顔を覆った。
いつまでも逃げていた。
自分を守ってくれるぬるま湯に。
認めることをしなければ、こんなに苦しくなかった。
羨ましいという感情は、妬みに近い。
嫉妬という感情は、劣情である。
それを認めることは、己が人より劣っていることを認めるのと同じ。
心の弱いところをさらけ出すこと。
それは、想像以上に勇気がいる。
雪を乗せた冷たい風が吹きすさび、赤茶の髪が乱れ前も見えない。
それでも手探りするように伸ばした腕は鉄色の頭をぽんぽんと慰めるように叩いた。
口元には微笑が浮かぶ。
やっと、言いたかったことが言える。
伝えたかったことが。
少女が首の鎖を自覚しなければ、それを外してやることはできない。
「あなたはあなたとして生きればいい。
名が無いのなら新しくつければいい。
生きる場所がないならここで働けばいい。仕事はいっぱいある。
一宮那乃は一人だけだ。
君は君らしく生きればいい」
言い聞かせる声はかつてないほど優しくて。
触れる手はほっとするように温かくて。
涙が、頬を伝い落ちていく。
「遥様、私は……那乃としてではなく、一人の人間として、恐れ多いことは分かってるけれど」
言葉に詰まりながらも、必死に紡ぐ。
それは、ただ一言が言いたいだけ。
「……好き、です」
なにも期待していない。
なにも求めていない。
ただ、溢れるその想い。
純粋な想いを止めることなんてできなくて、遥は静寂に響くその言葉を耳にした。
「……うん、ありがとう」
遥が返せるのは、微笑だけ。
それでも、少女は嬉しそうに笑った。
ちくりと胸が痛んで、彼は俯く。
「君に、一つ謝りたい。
僕は、アンジェが必要なんだ。孤独なときにそばにいてくれた、彼女が。
きっと、これは恋なんて綺麗な想いじゃない」
少女は寂しそうな微笑みを浮かべた。
那乃がよくしていた、表情だった。
「僕のわがままで、君の純粋な気持ちを踏みにじって、ごめん」
頬を伝う涙は乾かない。
遥がそれを拭くことはできなかった。
その様子を、裕の部屋から出てきた杏が目撃する。
「あ、泣かせてる」
杏は少女に手を伸ばし、空いたその胸に少女は顔を埋める。
守るように抱き締められ、同じ力で抱擁を返す。
杏の責めるような視線は遥に向けられた。
しかし、涙の止まった少女は、杏が責める言葉を口に出す前に彼女を呼んだ。
「ねえ、杏。私に名前をちょうだい」
あまりに唐突な頼み事に杏は目を瞬かせたが、じっと少女を見つめ、やがて気を取り直すように微笑む。
「考えさせて」
別れのときは迫っている。
もしかしたら二度と会うことは叶わないかもしれない。
そんなことを考えながら、杏は鉄色の髪を梳く。
「いつでもいいよ」
少女はあくまで無邪気だ。
それに肯定を返しながら、杏は笑顔を返した。
「ねえ、餞別に髪をちょうだい」
少女は首を傾げる。
どうして髪の毛なのだろう。
何の餞別なのだろう。
何も知らない少女は答えを見つけられない。
「そして、医術室に顔を出して」
更に謎を深めるその一言に、しかし遥は笑みを深めた。
舞姫たちの舞が終わり、杏が広間から姿を消した頃。
遥は廊下の窓を開け、中庭を見下ろしていた。
首もとを寛げ、白い息を吐く。
「……はるか、さま……」
声をかけるのを躊躇うその背中に、まるで既視感のようにか細い声が掛けられた。
振り向いた先にいたのは、淡い色のドレスに身を包んだ葡萄色の少女。
話しかけるつもりで名を呼んだのではないようで、振り向いた彼にびくりと身体を震わせた。
「どうされたんです、一宮嬢。こんなところで」
あんなことをしたから当然だと思うが、いつも遥には険のある目線を向けられてきた。
どこか冷たさを感じる表情。
それが悲しくもあり、罪悪感を突きつけられる気がした。
しかし、久しぶりに会った彼は、怯える少女に表情を和らげてみせた。
それにほっとするのも束の間、当たり前のように呼ばれるその名が哀しかった。
「外は雪ですよ。お風邪を召されます」
どうしてと問われても、明確な答えを持っていない少女は、誤魔化すしかなかった。
泣きそうな顔を誤魔化すように笑う少女に、遥も力なく微笑みを返す。
「寒かったですか?すみません。
ですが、あなたとここで会うなんて、奇遇ですね」
後宮の入り口に当たる廊下。
なんの変鉄もない。
要領をつかめず、小首を傾げた少女の鉄色の髪を冷たい風がふわりと揺らして通り過ぎた。
遥はそっと目を伏せる。
「この奥の部屋が、那乃の部屋だったんです。
……ここで、婚約解消を言い渡しました」
そう、あれはとても暑い、真夏の日。
婚約解消を告げたとき、一宮那乃は臥せっていた。
『__っ、はるか、さま……っ』
告げるだけ告げて、逃げるように部屋を辞した遥を追いかけ、崩れそうな身体を必死に保つ彼女は、か細い声でその背を呼び止めた。
『那乃。そんな身体で走ってはダメだろう』
ちょうど遥と那乃の間の窓が開け放たれていて、生温い風を送り込んでいた。
『こ、婚約を解消って……。私、力不足だったんでしょうか?』
石造りの壁は気休め程度には冷たい。
そこに身体をもたれかからせ、荒い息を吐いて尚も、震える声で那乃は追い縋った。
『違うよ。ぼくの気持ちの問題だ。
ぼくの気持ちが中途半端なのに、君をしばりつけておきたくない』
『それでも私は構いません。許されるなら、あなたの傍にいたい。
それとも、私がこんな身体だから……ご迷惑なんでしょうか』
『迷惑じゃない。いつも言っているだろう。
でも、婚約解消をすれば、登城義務はなくなる。ゆっくり身体も休めれるはずだ』
勝手だった。
偽善だった。
彼女の次の言葉を知っていて、遥は慰めにもならないことを重ねる。
『私は、義務でいるのでは……っ。みなさまに、会いたいから……』
とうとう床に膝をつきそうになり、遥はその身体を支える。
それは持ち上げれそうに軽かった。
彼女を傷つけると知っていながら、婚約解消を言い渡したのは、単なる自己満足に過ぎなかった。
「ここへはよく来られるのですか?」
「いいえ。あなたに呼ばれて、初めて思い出しました。薄情な男です……」
小さな彼女より、共に育った少女の方が大切だった。
幼い恋心より、弱い心の方が大切だった。
そんなひどい仕打ちをしたのだから、恨まれて当然だ。
自嘲を含み苦く笑う遥に、少女は一歩足を進めた。
手を伸ばせる距離に近づいたのに、少女は儚げに笑うだけ。
「大丈夫ですよ、遥様。那乃様はあなたを恨んでなどいませんでした。
最期まで、あなたに恋をしていたのです」
昨夜も杏に伝えたこと。
もっと早く勇気を出して日記を読んでいれば、こんなにも彼らを苦しめることもなかったかもしれない。
大切な友を傷つけることもなかったかもしれない。
過ぎ去ってしまったことだけれど、そう思うと少し苦しい。
伸ばせれない腕を、触れられない手を、じっと見つめる。
ずっと守られ、皹一つもない手。
この手で守れるものがあるかもしれなかったのに。
「私はずっと杏が羨ましかった。どうして私じゃいけないのかと、どうして他人のふりをして生きなければならないのか、と。ずっと隠していたけれど、羨ましくて……」
やがてそれは少女の顔を覆った。
いつまでも逃げていた。
自分を守ってくれるぬるま湯に。
認めることをしなければ、こんなに苦しくなかった。
羨ましいという感情は、妬みに近い。
嫉妬という感情は、劣情である。
それを認めることは、己が人より劣っていることを認めるのと同じ。
心の弱いところをさらけ出すこと。
それは、想像以上に勇気がいる。
雪を乗せた冷たい風が吹きすさび、赤茶の髪が乱れ前も見えない。
それでも手探りするように伸ばした腕は鉄色の頭をぽんぽんと慰めるように叩いた。
口元には微笑が浮かぶ。
やっと、言いたかったことが言える。
伝えたかったことが。
少女が首の鎖を自覚しなければ、それを外してやることはできない。
「あなたはあなたとして生きればいい。
名が無いのなら新しくつければいい。
生きる場所がないならここで働けばいい。仕事はいっぱいある。
一宮那乃は一人だけだ。
君は君らしく生きればいい」
言い聞かせる声はかつてないほど優しくて。
触れる手はほっとするように温かくて。
涙が、頬を伝い落ちていく。
「遥様、私は……那乃としてではなく、一人の人間として、恐れ多いことは分かってるけれど」
言葉に詰まりながらも、必死に紡ぐ。
それは、ただ一言が言いたいだけ。
「……好き、です」
なにも期待していない。
なにも求めていない。
ただ、溢れるその想い。
純粋な想いを止めることなんてできなくて、遥は静寂に響くその言葉を耳にした。
「……うん、ありがとう」
遥が返せるのは、微笑だけ。
それでも、少女は嬉しそうに笑った。
ちくりと胸が痛んで、彼は俯く。
「君に、一つ謝りたい。
僕は、アンジェが必要なんだ。孤独なときにそばにいてくれた、彼女が。
きっと、これは恋なんて綺麗な想いじゃない」
少女は寂しそうな微笑みを浮かべた。
那乃がよくしていた、表情だった。
「僕のわがままで、君の純粋な気持ちを踏みにじって、ごめん」
頬を伝う涙は乾かない。
遥がそれを拭くことはできなかった。
その様子を、裕の部屋から出てきた杏が目撃する。
「あ、泣かせてる」
杏は少女に手を伸ばし、空いたその胸に少女は顔を埋める。
守るように抱き締められ、同じ力で抱擁を返す。
杏の責めるような視線は遥に向けられた。
しかし、涙の止まった少女は、杏が責める言葉を口に出す前に彼女を呼んだ。
「ねえ、杏。私に名前をちょうだい」
あまりに唐突な頼み事に杏は目を瞬かせたが、じっと少女を見つめ、やがて気を取り直すように微笑む。
「考えさせて」
別れのときは迫っている。
もしかしたら二度と会うことは叶わないかもしれない。
そんなことを考えながら、杏は鉄色の髪を梳く。
「いつでもいいよ」
少女はあくまで無邪気だ。
それに肯定を返しながら、杏は笑顔を返した。
「ねえ、餞別に髪をちょうだい」
少女は首を傾げる。
どうして髪の毛なのだろう。
何の餞別なのだろう。
何も知らない少女は答えを見つけられない。
「そして、医術室に顔を出して」
更に謎を深めるその一言に、しかし遥は笑みを深めた。