闇夜に笑まひの風花を
「まったく。せっかく準備してたの に……」
静寂の満ちる空間で、最初に声を発したのはリルフィだった。
彼女は記憶が混線したことに気づいていないのか、平然と溜息を吐く。
状況から考えて、時間はあまり経っていないようだった。
遥に力添えされた杏の唄によって、さっきまで騒がしかったヒェンリーと琳は眠りに落ちている。
魔は咆哮することをやめた。
杏はまだぼうっとしており、遥は彼女の声にやっと我に返ったところ。
しかし、リルフィの残念そうな声に返したのは、最も影響の薄かった裕だ。
「何をしようとしていたかは知りませんが、痛いことや怖いことより、こっちの方がずっと簡単でしょう?」
自らを貶めようと企んでいた首謀者にはなんとも甘い処置だが、そんなところも嫌いじゃない。
裕は抱き込んでいた弟の髪をそっと撫でた。
「……兄さん……」
遥はあどけない表情で兄を見上げ、リルフィは苦く悪態をつく。
「生意気な小僧ね」
裕は睨むように彼女を見つめた。
「一連のすべて、首謀者はそこで呑気に眠っている翡苑ですね」
鋭い断罪に、しかしリルフィは冷たい目線を彼に向けるだけ。
「アミルダの王族を憎み、アンジェを殺そうとした。十三年前に」
「十三年前って、こいつを呼び出したところから……?」
遥が信じられないというように、上を見上げる。
「あなたを見ていて思ったんです。二十四年前、アミルダが呼び出そうとしていたのは、あなたなんじゃないかと」
闇属性の暴れもの。
杏を殺せば、枷を失って自由に暴れまわり、国一つを簡単に滅ぼせる気性と力を持っている。
ずっと杏は気にしていた。
魔を引き剥がす方法ではなく、魔を消す方法を。
今、魔は杏から引き剥がされている状態だ。
それをしたのは、登場直後のリルフィ。
いくら契約がまだ切れていないとはいえ、ならば何故、魔は暴れ出さない?
考えられるのは一つ。
魔を抑え、消すことができるだけの力を、リルフィは持っている。
何よりも勝るその力。
いつの日か、崇高さを忘れた子孫が私利私欲に悪用しようとするのは、考えられない話ではない。
裕の指摘に、リルフィは溜息を吐いた。
「そうね。間違いじゃないと思うわ。私も実際に喚び出されたわけではないから、なんとも言えないけれど」
それでも戦争に使われたくはなかったけどね。
そう溢す彼女の溜息は落胆だろうか。
「では__」
更に追及しようとする裕の腕の下で、杏がびくりと震えた。
「悪いけど。あなたのおしゃべりに付き合っている時間はないの」
苛立ちを含む声に遮られてしまえば、裕は黙るしかなかった。
闇がまた、杏を睨んでいる。
否、狙っている。
「 アンジェ」
彼女に話しかけるときだけ、リルフィの声は柔らかくなる。
それはまるで、アルファルのように。
「願いなさい」
魔の視線から守るように、リルフィは間に立つ。
金色の圧力が薄れて、杏は息を吸った。
「私たちの罪の産物をどうか、消して……害がないように。人を、 殺さないように……」
彼女は知らないくせに、分かっている。
魔が、彼女たちの罪であることを。
力の抜けた彼女の手を、握ったのは、誰。
「良いでしょう」
リルフィは微笑を浮かべると、杏の胸元を赤く染めた痣をなぞる。
上から下まですべてをなぞられ、癒えていく感覚に杏は目を閉じた。
痣は彼女と魔の契約の証。
それが消え、自由になった魔を振り返ると、リルフィは一言重く呟いた。
「エザラ」
その瞬間、耳をつんざく断末魔が響き渡る。