闇夜に笑まひの風花を
*****

寝苦しくて、飛び起きるように目を覚ました。
ひどく悪い夢を見ていたようで、汗をじっとりとかき、呼吸も荒い。

『だいじょうぶ?』

水とともに差し出された、優しい声。
それを聞いて、何故だかほっとした。

誰だか分からなくて、誰かと問いたいのに、喉が張り付いて声が出ない。
ひいひいと引き攣れた呼吸をする喉に冷たい水を流し込んで、咳き込む。

『ああ、ダメだよ、ゆっくりのまなきゃ』

ベッドの上で身体を曲げて咳き込む背中を、少年の手が心配するように撫でさする。
その手から生気が入り込むように、不思議と呼吸が楽になった。
ほら、ともう一杯水を渡されて、ゆっくり飲まなきゃダメだよと念を押される。
少年の手を借りながら一口一口水が身体に染み渡るのを感じつつ、ゆっくりと飲み干す。
咳き込まずに空になったカップを見て、彼は破顔する。
そして、汗だくの頬を小さな両手で挟み、額をくっつけた。

『少しはおちついた?』

穏やかな少年に甘えるように、こくりと首肯する。
鼻先の触れる距離で、彼は笑った。

『きれいなひとみだね。春にさく花みたいな色』

彼の言う色が何色か、分からなかった。
自分の瞳の色なのに。

『ねえ、君、なまえは?』

名前を問われてもそれが何かも分からず、ただ首を傾げた。
すると、少年は一瞬泣きそうな顔になり、ぎゅっと口を噛み締める。

『じゃあ、あんずってよんでいいかな?君のひとみの色だよ。

ぼくのことはハルって呼んで?』

覚束ないまま掠れた声で復唱すると、少年は、痛みを堪えて笑ってみせた。
顔は笑っていても、赤銅色の目が切なく揺らいでいた。



__心が何かに焦がれて泣いている。
目を開けるのも億劫だったが、何かを吐き出すように大きく息を吐いて瞼をあげる。

「……姫様」

落ち着いた低い声。
少し嗄れているけど、まだまだ力強い。

その声に視線を彷徨わせると、臙脂色のローブが目に入った。
どこか懐かしい、それ。

「…………、ウィク」

「はい、姫様。
ずっとずっとお会いしとうございました。もう、叶わないかと…」

男は皺の刻まれた手でアンジェの手をそっと握った。

「げんき、だった?」

「はい、はい……。
お辛かったとき、お傍におれず…申し訳ありません、でした…っ」

アンジェは一度目を閉じた。
その下には隈がくっきりと浮いている。

「ウィク…。またあなたに会えて、嬉しいわ」

老年であるウィクは、アンジェの教育係だった男だ。
祖父母の代からずっと仕えてくれている男で、アミルダ一と言っても過言ではないほど博識であり、特殊文字も読みこなす。
おそらく、彼が召喚の研究チームにいれば、あの間違いに気づいただろう。

しかし、そのとき彼は移動の魔術の最高責任者だった。
そして、禁術を使おうとしたアンジェにいち早く気づき、両親に伝えたのも彼である。

「ごめんなさいね。お母様とお父様と一緒に帰って来れなくて…」

彼はティアの教育係でもあったらしい。
彼女を娘のように愛していたウィクにとって、彼女の死の報せは身を切られるほどに辛かっただろう。

「いいえ。姫様がご無事で、それが何よりでございます。お一人で、抱えられて…」

しかし、ウィクはずっと小さき姫の心を案じていた。
泣くこともできない、少女のことを。

「ウィク…。ペンダントを置いてきてしまったわ。あれは、国宝だったのに、ね…。ごめんなさい…」

吐息のような声で、ただ淡々と述べるアンジェは、ずっと天井を見上げていた。

「いいえ、謝られることはありません。すべて、姫様の意のままに」

冷たく細い指を温めるように撫でる手が止まり、ぎゅっとその手を掴んだ。
痛みすら感じる手に引き戻されるように、感覚がじわりと湧いてくる。

身体を包み込む柔らかさ。
時折忘れぬように痛む胸元。
そして、常に罪悪感に苛まれる心。
ぼんやりとしていた頭が、霧が晴れるように冴えていく。
しかし、反比例のように視界が滲む。

どうしたことだろう、と瞬きをすると、涙が一筋頬を伝った。

「アンジェ様…」

穏やかな低い声と、その名前が懐かしくて、涙が止まらなくなる。

「……っ、ウィク…っ」

王たるもの、涙を見せてはなりませんが口癖の厳しい教育係も、縋るように泣く少女の手を慰めるように撫でていた。
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