闇夜に笑まひの風花を
どうやら王子の自室のようだ。
杏の部屋の二倍程はあるだろう。
目の前には長椅子が一つ置かれていた。
そこに悠然と座る男。
濃紺を基調とした煌びやかな服を着ている。
歳は二十を幾らか越えた頃だろうか。

「そなたが坂井杏か」

威厳を漂わす声。
逆らうことを許さない威圧感を感じる。

「……は、い」

張り付いた喉では返事すらまともにできそうになかった。
彼に圧倒され、礼のことすら頭から抜け落ちていた。
そんな彼女を責めるでもなく、王子は杏に観察するような目を向ける。

「春に花を咲かせる木の名だな。なるほど、瞳の色か。
ふむ、なかなかの美人だ」

美人?

杏は小首を傾げる。
白雪の肌を取り囲む琥珀色の長い髪、切れ長の目、淡紅色の瞳、すっきりと適度に高い鼻、柔らかそうな唇……と、その造作は整っているのだが、杏には自覚がない。
きょとんとする杏に、王子が片眉を上げる。

「おや、言われたことがなかったのか?」

「いえ、気に留めませんでした。
あの、失礼ながら王子」

杏は震える拳に力を入れる。
王子の瞳が先を促した。

「私をお召しになったのは、国王陛下ではないのですか?」

震える声を抑えて話す。
王子は肘掛けに肘を置き、顎を支える。
そして、口元が意地の悪い笑みを刻んだ。

「ああ、私だ。父王の名は使わせていただいただけだ」

「では、王子」

足が竦む。
けれど、訊かないといつまでも帰れない気がして、俯きそうになる顔を必死に保った。
息を、吸い込む。

「どうして私をお召しになったのですか?」

王子の目が一瞬、剣呑な光を帯びる。

「おいで。近くに、おいで」

王子は無表情だった。
口元からも笑みが消えている。
無感情の瞳が杏を見つめた。
恐怖に身体が強張った。

動けない杏に、もう一度声が掛かる。

「それを教えて欲しいのなら、私の傍までおいで」

まるで脅迫だった。
杏は唇を噛む。
拳だけでなく、身体が小刻みに震え出す。
涙が零れそうになるのを必死で堰き止めていた。

いや、行きたくない……。

王子が何を考えて言っているのか、皆目見当がつかないのだ。

けれど、行かなければならない。
理由を知るために。
否、遥と暮らす家に帰るために。
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