闇夜に笑まひの風花を
パリン、と何かが割れた音がした。
それは、杏が杏であるために必要な大切な何かが、壊れてしまったような喪失感を伴った。

杏は横に首を振る。
裕を見つめる表情は泣きそうに歪んでいた。

心が、崩れる。

他人に、自分の価値を決められるなんて、真っ平だった。
庶民だからとか、舞の才能があるからではなく、杏は自分の意志で舞姫になりたいと望み、努力してきた。
自分の存在意義も、生まれてきた理由も、自分で決めるのだ、と幼い頃から何度も誓ってきた。

それなのに。
この国の王子に存在意義を決めつけられなければならない。

否、杏が一番衝撃を受けたのは、
彼の言葉に首肯せざるを得ない、という事実だった。

亡国の王族の血を持つことは、この国の王族の地位を脅かす。
この国を乗っ取ろうと思えば乗っ取ることができる存在なのだ。

彼女が生きるには、彼らに従順でばければならない。
生きる代わりに、彼らに利益をもたらさなければならない。

凶悪な死刑囚と同じ罪を生まれながらにして持つ彼女には、逃れることなどできない。

杏は腿の横でドレスを握り込み拳を硬く握って、震えた。
指が、腕が、足が、心が……彼女の全てが、その事実に震え出した。
俯いて、泣きそうになって目を閉じて。
それでもやはり、涙は出なかった。

「……どうして、殺さないの……?」

今にも消えてしまいそうな、弱々しい声。
どうにか絞り出した、苦しい声。

裕は微笑した。
そして、今にも崩折れそうな彼女の腰を、片手で引き寄せた。
杏の頤に指を掛けて上を向かせ、その強さを失った瞳を覗き込む。

「お前は殺せない。痣の所為だけでない。たとえ殺せても、お前を殺しはしない。
死に逃げられると思うな」

それは、杏にとって死刑執行の一言と同義だった。

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