闇夜に笑まひの風花を
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「ああいうときは名乗るのが手っ取り早いんですよ。それが面倒ならば、初めから衣装の色を……」

杏を見つめる遥の隣で、翡苑がぶつぶつと呟く。

「そうしてしまえば、彼女と踊れない。
できれば、今日はずっとバレない方が良かったんだかな」

遥の身分が公になるには、分が悪すぎた。
今までの杏の頑張りを、遥が台無しにしてしまうかもしれなかったのだ。

だから、この展開はありがたかった。
誰のわがままだが知らないが、今はそれに感謝したい気分だった。

「それなら、威厳で黙らせられるようにしてくださいよ」

「まったくだ。
名を使わなければ上に立てないなど、みっともないにも程がある」

そう言う遥は自嘲し、瞳はどこか遠くを見ていた。

視界の中で、杏が舞うのが見える。
遥はその様子に我に返って、彼女を見つめて苦笑した。

「それにしても、忘れられているものだな」

「遥様はただでさえずっとこういう場には出られなかったんですから。忘れられるのも仕方ありません」

「お前は覚えていたじゃないか」

「当然です。
私が居ない間に姫様に悪影響がなかったか、心配で心配で……」

そう言って、翡苑はまるで親のように涙を拭く真似をする。
遥はそれを視界の隅で捉えて、呆れた。

「そっちかよ。
安心しろ。心配には及ばない」

おそらく翡苑の心配していることが起こらなかったことは、遥が一番よく分かっていた。

杏と遥は本当に純粋な幼馴染だった。
幾度も抱擁を交わしたり、同じ部屋で眠ったことはあったけれど、同じベッドで寝起きしたことは、あのときのただ一度だけだ。

彼らの前で、杏は足を痛いのを我慢して一人で舞っている。

一日に三度も踊るなど、前代未聞ではないかと思えた。
それだけ杏の舞が認められたのか、誰かの嫌がらせか。
おそらく、後者だろう。

遥は重い溜息を一つ吐く。

「姫が舞姫として召し上げられたら、遥様はいかがなさるのですか?」

「杏のパートナーは俺が務める。兄上にも渡さない」

彼女の怪我にも気づかないような奴に渡す気などない。

強い意志を持って見据える遥の横で、翡苑は彼女を見つめていた。
その瞳に、泣きそうな色が揺れる。

「杏様、ですか……。
うまい具合に名付けられましたね……」

それにどう返していいのか、遥には分からなかった。
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