5年前のあの日
まさか、アイドルを一人で待たせるわけにはいかない。
しょうがないから、バイト先の喫茶店のカウンターに亜矢を座らせ、そこで待ってもらう事にした。
「大ちゃん、いいの?」
「別にいいよ。今の時間はお客さん、いないから」
マスターの休憩時間の穴埋めとして俺は雇われた。
コーヒーの淹れ方を教わって、あとは簡単な軽食なら作れる。
俺は、亜矢の目の前にコーヒーと冷蔵庫の中にあるマフィンを置いた。
「いいの?」
亜矢は嬉しそうにコーヒーを飲む。
やっぱりまつ毛が驚くほど長いし、きれいに化粧もされている。
「びっくりしたよ。まさか、亜矢がアイドルになるなんて」
亜矢は、コーヒーを一口飲むと、俺を上目遣いで見つめる。
「え?何でびっくりするの?」
「いや、だって、お前、アイドルになりたいとか言ったことなかったじゃん」
俺のその言葉を聞いた亜矢は、コーヒーカップをカウンターに静かに置くと、心底呆れたという顔をしてため息をついた。
「やっぱ、男ってそうなのね」
亜矢は、俺を哀れむような顔で見つめ、にやりと笑う。
「でも、約束したのよ。ちゃんと。5年前のあの日」
「何を?」
「あたしが、アイドルになったら、何でも言うこと聞くって」
「はぁ?」

目の前の亜矢は、悪魔のように微笑んだ。


俺の体を電流が走った。
思い出した。
5年前のあの日。
確かに言った。
「亜矢がアイドルになれたら、何でも言うこと聞く」
そう言った。

目を白黒させてる俺に、亜矢が畳み掛ける。
「何でそんな話になったかは覚えてないの?」

「……覚えてない……」

「そんなんだから、福岡の男子はダメなのよ。東京の男はもっと気が利くわよ」
「……そんな、いちいち覚えてられないし」
亜矢は、マフィンをちょこっと口に入れ、俺の顔をまじまじと見る。
「やっぱ、大ちゃん最低。私の大事なもの、壊しちゃったのよ」
「え?」
いやいや、最低って。俺、何か壊したっけ?さすがにそんなことしたら覚えてるし。つーか、何だよ。話、おかしくない?俺が亜矢のものを壊して、亜矢がアイドルになったら何でも言うこと聞くっておかしくない?
俺が首をかしげ、わけがわからない顔をしてたら、亜矢の携帯が鳴り出した。
「あ、もしもし。はい、すいません。祖母の手術は大丈夫でした。明日には東京に戻りますから」
亜矢はそう言うと、手帳を取り出し、何かを書き込む。
手帳には細かい文字でスケジュールらしきものがびっしり。
「有名人に、なっちゃったんだな」
俺は、ぼそりと呟き、コーヒーカップを洗い始めた。


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