桜ものがたり
 春の朧月夜。

 祐里は、台所の後片付けの手伝いを終えてから、紅茶を届けに光祐さまの

部屋の扉を叩いた。

「光祐さま、お茶をお持ちいたしました」

 部屋の丸テーブルに紅茶を置いて、バルコニーの光祐さまへ視線を向け
る。

 日々の掃除が行き届いている光祐さまの部屋は、光祐さまの不在を感じさせない。

 祐里は、淋しくなるとこの部屋に入って、光祐さまを想った。

「祐里、来てごらん。月が綺麗だよ」

 バルコニーから光祐さまの声。


 光祐さまの部屋のすぐ横には、蕾を膨らませた樹齢三百年を超える優美な

桜の樹が枝を広げている。

 その枝の間に朧な月がかかっていた。

 月の薄明かりの中で木立が織り成す陰影が静かな湖のように青く広がっている。

 時折明るさを増す月光が池の水面に輝く星空を展開していた。

「光祐さまとご一緒に拝見させていただくお庭は、御伽(おとぎ)の世界の

ようでございます。

 天空のようでもございますし、深い海の底のようにも感じられます」

 祐里は、光祐さまと並んでバルコニーに佇み、幻想的な庭園の風情に

感動していた。

 光祐さまの横にいるだけで満ち足りたしあわせに包まれていた。

「月の光を浴びて、祐里は、この桜の精のようだよ」

 光祐さまは、庭に感動している祐里の横顔をみつめて、

優しく肩を抱き寄せた。

 祐里は、静かに光祐さまに寄り添い温もりを感じていた。

 時間が止まったようにゆるやかに流れていた。
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