桜ものがたり
 光祐さまは、台所から部屋へ戻る途中、得体の知れない不安に襲われて、

奥さまの部屋の扉を叩いた。

 部屋の中からは、奥さまの沈んだ声が帰ってきた。

「母上さま、お加減が悪いのですか」

光祐さまは(父上さまも母上さまもご様子が変だ)と感じ、

祐里の振り袖に続いて、奥さまの留め袖姿に尚更不安が渦巻く。

 旦那さまが帰宅してからほんの一時間ほどで、桜河のお屋敷の空気は、

翳りを見せていた。

「少し、頭が重くて。でも、昼食会までには回復しますから、

心配なさらなくても大丈夫でございます」

奥さまは、憂いを含んだ笑みを光祐さまへと向ける。

 光祐さまにどのように説明すればよいのか言葉が見つからなかった。

「父上さまが祐里に振り袖を着るようにとおっしゃったのですが、

榛様は、それほど大切なお客様なのですか」

 気軽な昼食会に振り袖や留め袖は不釣り合いな気がしてならず、

光祐さまは、奥さまの返答を待って顔を見つめた。

「旦那さまは、本日の昼食会を榛様のご子息と祐里さんのお見合いの御席に

なさるお考えなの。

 わたくしも先ほどお聞きしたばかりで、反対意見を申し上げたのです。

 でも、既に決めたことなので従うようにと、旦那さまのご命令なの」

 奥さまは、いつになく興奮した面持ちで、旦那さまの意向を光祐さまに

告げた。

 光祐さまの心に「命令」の言葉が楔(くさび)となって突き刺さる。

「ぼくも反対です。祐里は、まだ十五です。

 祐里に何も知らせないで突然見合いだなんて、そのような事があっていい筈が

ありません。父上さまは、何をお考えなのですか」

光祐さまは、心臓を打ち抜かれた気分になり、どうにかしなければと

心ばかりが焦る。
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