桜ものがたり

 その時、奥さまの足音が聞こえてきた。

 文彌は、足音に驚いて祐里を離した。

 その振動に祐里は、正気に返って、胸を撫で下ろした。

「祐里さん、文彌さん、午後は陽射しが強うございますので、テラスで

お茶にいたしましょう。

 祐里さん、紫乃にお茶の用意をお願いしてくださいね。

 文彌さんは、テラスへご案内しますのでこちらへどうぞ」

 奥さまは、時間を見計らって台所に行き、紫乃にお茶の用意を催促すると、

祐里を心配して自ら庭園に足を運んだ。

「はい」

 奥さまの申し出では文彌も断れず舌打ちをして、祐里を振り返りながらも

テラスへ向かった。

「はい、奥さま。すぐにお茶をお持ちいたします」

 祐里は、安堵の溜息をついて、何事もなかったかのように台所へ向かった。

 途中、桜の樹の横を通りかかると、その幹に触れて

(桜さん、祐里をお守りくださいませ)と念じた。

「祐里さま、お顔の色が悪うございますが、帯がきついのではございませんか。

 昼食会がお見合いの席とはびっくりいたしました」

 紫乃は、心配して祐里の帯を心もち緩め、文彌に抗って乱れた襟元を正した。

 紫乃は、突然に降って湧いた祐里の見合いに驚いていた。

 口には出せないけれど、旦那さまの意向とはいえ、三歳の時から育(はぐく)み、

台所仕事を手塩にかけて教えてきた祐里を嫁に出したくないと強く思っていた。

「ありがとうございます、紫乃さん。楽になりました」

 不安でいっぱいな祐里の心情を察した紫乃は、祐里をしっかりと抱きしめる。
 
 祐里は、紫乃の優しさの中に融けてしまいたかった。

「さぁ、祐里さま、お茶は、紫乃と菊代で運びますので、

どうぞテラスへお越しくださいませ」

祐里は、紫乃の優しさに触れて、少しだけ元気を取り戻すと、

足取り重くテラスへ向かった。

 文彌は、テラスへ戻る途中、同じくテラスへ向かう光祐さまと廊下で鉢合わせ、

互いに敵対心を燃え上がらせる。

「光祐坊っちゃん、大切にし過ぎた祐里を美味しくいただかせてもらうよ。

 僕は好物から先に食べる性格だから」

 文彌は、光祐さまの心情を逆なでするように嗤って耳元で囁いた。

 光祐さまは、無言のまま、傷付いた掌をなお握り締めた。
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