桜ものがたり
 祐里は、旦那さまとお客さまの手前、愛想よく振る舞いつつも、

時間が早く経つことばかりを念じていた。

 奥さまと光祐さまは、そんな祐里の横で、こころを痛めて見守ることしか

できなかった。

 祐里に横暴な態度をとった文彌は、旦那さまの前では上手に立ち振る舞い、

好印象を与えていた。

 反面、旦那さまに気付かれないように光祐さまには、敵意に満ちた毒牙を

鳴らすような視線を放ち、光祐さまは、文彌の剥き出しの敵意をしっかりと

受け止め、耐え忍んでいた。


お茶の時間の後、榛一家は、満足して帰っていった。

 文彌は、玄関先の車寄せで見送る祐里を凝視し、大蛇がとぐろを巻いて

締めつけるかのごとく祐里のこころを暗黒の闇へと束縛していた。

 旦那さまと奥さまが屋敷に入るのを見届けて、

祐里は、ひとり桜の樹の下に向かった。

 桜の樹は、傷ついた祐里の心を陽だまりの暖かさで包み込んだ。

(桜さん、祐里は、お嫁になど行きとうございません。

 光祐さまのお側で、ずっとこのお屋敷に居とうございます)

 祐里は、桜の樹を見上げてこころの中で呟き、大粒の涙を零しながら

その太い幹に顔を伏せた。

 桜の樹は、爽やかなそよ風と可愛い小鳥たちを呼び、お雛さまのように

可憐な振り袖姿の祐里を抱(いだ)くように慰めた。
 
 その真上のバルコニーでは、光祐さまが

(桜の樹、ぼくに力を貸しておくれ。ぼくは、祐里を守りたい)

と真剣に桜の樹に祈っていた。
 
 しばらくの間、桜の樹の下にいた祐里は、辛い心を抱えたまま、夕食の支度を

手伝う時間を気にして、振り袖を着替えに自室へ戻った。

 祐里は、振り袖を脱いで衣紋掛けに掛けた。

 着る時には、春爛漫を描いた屏風絵のようだった振り袖が祐里の心を映して、

宵闇に色を失っているように感じられた。
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