桜ものがたり
 夕食の時間になっても、奥さまと光祐さまは、気分が優れないと食堂に

顔を出さなかった。

 祐里は、食欲がないまま、旦那さまと二人だけで食卓に着く。

 祐里の立場では、気分が優れないと食卓に着かないわけにはいかなかった。

「祐里、文彌くんはどうだった。しっかりした青年で、気に入ったことだろう」

旦那さまは、縁談の話にご満悦で、かつ食欲旺盛で、にこやかに祐里へ

話しかける。

 祐里は、返事のしようがなく小さく頷いた。

「そうか、そうか、お茶の時間にも話が出たが、先ずは婚約して女学校を

卒業してから結婚というのがよかろう。

 それとも、祐里が早く結婚したいのであれば、結婚して榛家(はしばみけ)から

女学校へ通わせていただくことも可能だ。

 私は、文彌くんに望まれて嫁に行くのだから良い話だと思うがね。

 女は、良き伴侶に恵まれてこそ、しあわせになれるのだからね」

 旦那さまは、優しい中にも諄々(じゅんじゅん)と祐里に説き聞かせた。

 祐里は、良縁に喜び、結婚を望んでいる旦那さまの様子を目の当たりにして、

文彌から受けた侮蔑を口にできなかった。

「旦那さま、あまりに突然のお話で、どのようにお答えしてよろしいのか

見当が付きかねてございます……

 私のことは、旦那さまに全てお任せいたします。

 どうぞよろしくお願い申し上げます」

 祐里は、旦那さまが祐里のしあわせを願っている気持ちを充分に感じ、

旦那さまの前で涙を見せないよう心を殺して、懸命に我慢する。

「そうか、そうか、私に任せてくれるか。

 私は、祐里にしあわせになってもらいたい。

 心配せずとも桜河家の娘として立派な支度をするからね。

 榛家ならば家柄は申し分ないし、生活に苦労をする事もないだろう。

 どうした、胸がいっぱいで食が進まないのかね」

 旦那さまは、自分の都合の良いように考えて、祐里の哀しみを遠慮した喜びと

解釈していた。

「そのようなことは……

 あの、旦那さま、私が光祐さまより先に縁談を決めてよろしいのでしょうか」

 光祐さまの伴侶が決っても、できれば奉公人として、桜河の御屋敷で

暮らしたいと祐里は一途の想いを繋いでいた。

「光祐の心配は無用じゃ。

 先ずは祐里が嫁いでから、光祐は、桜河家の後継ぎとして、大学を卒業する

までには相応しい良家の子女と縁組をすることになるだろう。

 そのためにも、祐里が先に嫁いで、榛銀行の後ろ盾ができて、安泰で何よりだ」

祐里の視界には、無限の闇が広がっていた。

 旦那さまは、上機嫌で祐里の蒼白な顔色を気に留めないばかりか、

初めての見合いで気疲れし、更に自分の眼鏡に適った好青年の文彌を気に入って

胸がいっぱいなのだろうと感じていた。
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