桜ものがたり
 紫乃は、台所で夕食の片付けを手伝う蒼白な顔色の祐里を気遣って

(今の祐里さまをお慰めできますのは、坊ちゃまだけ)

と考えると、祐里に声をかけた。

「祐里さま、今日はお疲れでございましょう。片付けは紫乃と菊代でいたします

ので、坊ちゃまに果物をお持ちして、ゆっくりなさってくださいませ」

「祐里さま、さぁ、前掛けを外されて、坊ちゃまにこちらをお持ちくださいませ」

 祐里は、心配顔の菊代に前掛けを渡して、果物の盆とともに紫乃と

菊代の思い遣りの心を受け取った。

「はい。紫乃さん、菊代さん、ありがとうございます。

 お先に下がらせていただきます」

 祐里は、光祐さまの部屋へ続く階段を重い足取りで上った。

 いつもの階段の数が何十段にも遠く感じられた。

「紫乃さん、旦那さまは、あまりにも酷いことをなされます」

 菊代は、祐里を不憫に思って切ない涙を流した。

 祐里よりも少し年上の菊代は、お嬢さまのように育てられている祐里を

時折羨ましく感じていた。

 しかし、お嬢さまでもなく、奉公人でもなく、自由に生きられない祐里を

この時ほど不憫に思ったことはなかった。

「菊代、旦那さまのなさることに私たちが口を挿むことは許されません。

 せめて坊ちゃまが祐里さまのお心をお慰めになられることを

祈るばかりでございます」

 紫乃は、旦那さまの絶大なる意向に耐え忍んでいる祐里のひとときの安らぎを

祈って手を合わせた。
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