桜ものがたり
「姫」

 寸前のところに柾彦の鋭い声が割って入ってきた。

「柾彦さま」

 驚いて腕の力を抜いた文彌の隙をついて、祐里は、我に返って柾彦に駆け寄り、

その背中に隠れた。

柾彦の逞しい背中は、頼もしく感じられた。

「誰、このひと」

 柾彦は、文彌の顔を睨み付けた。

「お前こそ、誰なんだ」

 文彌は、激情から円卓の上の葡萄酒の杯を掴むと柾彦に投げつけた。

 柾彦は、祐里を庇いながら上手に葡萄酒の杯をかわす。

 紅色の滴(しずく)が弧を描くと共に、後方で硝子の砕け散る音が管弦楽の

演奏と共鳴した。

「ぼくは、姫の守り人(もりびと)です。

 このような公の場で、礼儀知らずの野獣から姫を守るのがぼくの務め。  
 姫、もう大丈夫です」

 柾彦は、怯(ひる)むことなく文彌の前に立ちはだかった。

 背中に寄り添う祐里の柔らかな肌を感じ、勇気が漲(みなぎ)っていた。

「へぇー、光祐坊ちゃんだけじゃなく、他にも男がいたとはね。

 おとなしい顔をして男を手玉に取るのが上手だな。

 そいつにも、もう抱かれたのか。

 そうやって、桜河の旦那さんにも取り入ったのだろう」

 文彌は、待ち焦がれていた祐里との愛撫の時間を柾彦に阻まれ、

祐里に罵声を浴びせる。

 祐里を手中にしながら、何時もあと一歩のところで邪魔が入ることが

悔しくてならない。

「榛様、柾彦さまに失礼でございます。

 お話は、旦那さまがお断り申し上げた筈でございます。

 このような事をなされては、御家の恥ではございませんの」

 祐里は、柾彦の盾に気を取りなおすと、毅然とした態度で言い返した。

「身分違いの君に恥などと言われたくないね。

 黙って僕の女になればいいものを」

 文彌は、祐里の言葉に血相を変えて、柾彦に勢い込んで掴みかかろうとする。

「姫を侮辱する失礼な野獣など相手にしないで、

さぁ、姫、大広間に戻りましょう」

柾彦は、文彌を無視して祐里を促した。

 このままだと文彌に殴りかかってしまいそうだった。

(確か鶴久病院は、榛銀行から融資を受けていた筈だった。

更に学生の身で大人の文彌と騒ぎを起こしては、鶴久病院の名を汚すことになる)

と、瞬時に頭の中で思い巡らせている自分に気付いて自己嫌悪に陥っていた。
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