桜ものがたり
  テラスにひとり残された文彌は、地団駄を踏み

(必ず僕の女にしてやる)

と祐里の胸の柔らかい感触が残った手を握り締めて、首筋の甘い香りを

思い出しながら、祐里への恋情ゆえの憎悪を募らせていた。


「ありがとうございます。柾彦さまがいらしてくださって助かりました。
 あら、申し訳ございません。お洋服に葡萄酒がかかってしまいました」

 祐里は、レースの白いハンカチを取り出して、柾彦の肩口に飛び散った

葡萄酒の滴(しずく)を拭き取る。

 祐里の白いハンカチは、深紅の葡萄酒が沁み込んで紅く染まり、それはまるで

祐里のこころの傷口から零(こぼ)れた鮮血のようで痛々しかった。

 柾彦は、未(いま)だに祐里が小さく震えているのを気遣って、ハンカチを

持つ祐里の手を握るとおどけて見せた。

「ありがとう、姫。先程、姫に気づいて声をかけようと思ったら、

なんだか野獣が姫を追いかけていて、守り人のぼくは疾風の如くかけつけた

訳です。

 野獣を退治できなかったのは残念でしたが、姫のお命はお守りできました」

 柾彦は、祐里に怖い思いをさせる前に間に合わなかった自身を悔いていた。

 祐里の冷たい手が柾彦の手の温もりで暖められていく。

「柾彦さまったら、また、御伽噺になってしまいますわ」

 祐里は、柾彦の優しさに包まれて、安堵の笑みを浮かべた。

 柾彦は、この際だからと祐里の手を握りしめつつ、先程、文彌が口にした

『光祐坊ちゃん』という名が胸の中に引っかかる。
< 57 / 85 >

この作品をシェア

pagetop