桜ものがたり
 突然に光祐さまは、懐かしさに浸る祐里をぎゅっと抱きしめた。

 お屋敷の光祐さまと孤児(みなしご)の祐里では身分違い。

 どれほどお慕いしても、叶わぬ恋。

 旦那さまと奥さまがいくら可愛がってくださっても、光祐さまに愛される

資格などあるわけがない。

 でも、光祐さまの胸の中で溶けてしまいそうなしあわせを感じている祐里がいた。

(このまま、時間が止まってしまうとよろしゅうございますのに)

 祐里は、こころの中で念じていた。

「祐里の香りがする。ぼくの大切な祐里。ぼくだけの祐里」

 光祐さまは、胸いっぱいに祐里の香りを吸い込んだ。

 桜の初々しい香りとともに、祐里の膨らんだ胸の感触を感じて、更に祐里を

独占したい気持ちが昂った。

「光祐さま。もったいないお言葉でございます」

 祐里の瞳からは、はらはらと涙が零れて、光祐さまの濃紺の上着を涙の雫で

滲ませた。

 光祐さまの逞しい胸に包まれて、至福の真只中にいながら、同時に奈落の

不安を感じている祐里がいる。

 お屋敷の光祐さまは、雲上人のように手の届かぬ御方だった。

「ぼくは、祐里を愛している。どのようなことがあろうとも、必ず、祐里と

結婚する。それとも祐里は、ぼくのことが嫌いなの」

 光祐さまは、逢えなかった三年分の愛情を祐里に注ぎ、なお強く抱きしめた。

 光祐さまの真剣な愛情を受けて、祐里は、大きく横に首を振る。

「ずっと、お慕い申し上げております。でも、光祐さまには、孤児の私など

分不相応でございます。まして結婚など畏れ多うございます。

 祐里は、このようにご一緒させていただくだけでしあわせでございます」

 祐里は、瞳を涙でいっぱいにして、光祐さまを見上げた。

 涙で霞んだ光祐さまの顔は、祐里の心の中では、鮮明に凛々しく映っていた。

「父上さまも母上さまも祐里のことを可愛がっておられる。身分など関係ないよ。

 それにぼくが誰よりも愛しているのだから、祐里は、ぼくを信じて

ついてきておくれ。さぁ、涙を拭いてあげよう。

 祐里が泣いていると、母上さまが心配されるからね。

 祐里は、泣き顔も美しいけれど、やはり笑顔が一番似合っているよ。

 ぼくのために笑っておくれ」

 光祐さまは、ハンカチを取り出して、祐里の青空を映し込んだ瞳の涙を拭った。

 次から次へと流れる涙を拭いながら、

光祐さまは、殊更祐里が愛おしく感じられ、更に強く抱きしめる。

 祐里は、ぽかぽかとした春の陽だまりに抱(いだ)かれ、夢見心地の気分に

浸っていた。
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