桜ものがたり
 光祐さまは、お屋敷の八脚門をくぐり、手入れの行き届いた木立が並ぶ

長い石畳を抜けて、東側の住まいである有名な建築家が設計した洋館と

西側の亡き祖父母の住まいであった荘厳な日本家屋を懐かしい思いで眺めた。

 洋館と日本家屋の間には、樹齢三百年の桜の樹が枝を広げて、

光祐さまの帰りを待っていた。

 光祐さまは、桜の樹に「ただいま」と心の中で声をかけて、

洋館の玄関へ歩を進めた。

「光祐坊ちゃま、お帰りなさいませ」

 女中頭の森尾あやめを先頭に女中たちが足音を聞きつけて、

玄関の端に一斉に並んで出迎えた。

「ただいま、あやめ。皆も出迎えありがとう」

 光祐さまは、あやめに笑顔を向ける。

 あやめは、立派になった光祐さまの姿に胸がいっぱいになり涙ぐんだ。

 他の女中たちも光祐さまの健やかな成長に見惚れていた。

「光祐さん、お帰りなさいませ。お帰りを待ち侘びてございましたのよ。

 祐里さん、ご苦労さま。ご一緒にお茶にしましょう」

奥さまが居間から顔を出して、成長した光祐さまを誇らしげに見つめた。

「母上さま、ただいま帰りました」

 光祐さまは、よく透る澄んだ声で挨拶をしながら、相変わらず華やかで美しい奥さまを誇らしく見つめた。

「奥さま、ただいま帰りました。遅くなりまして申し訳ございません。

 お茶を入れて参ります」

 祐里は、泣いたあとの顔が気になって、台所に続く廊下の鏡を覗きこんだ。

 それから急いで洗面室で顔を洗って台所へと急いだ。

「紫乃さん、ただいま、帰りました。お手伝いができなくてごめんなさい」

 笹木紫乃(ささきしの)は、奥さまが嫁いだ時に実家から連れて来た婆やで、

奥さまのよき相談相手だった。お屋敷の台所を取り仕切り、女中頭のあやめとも

馬が合い、共にお屋敷の奉公人を束ねていた。

 紫乃は、光祐さまの好物を腕に縒りをかけて準備している最中だった。

 祐里は、お屋敷では養女と同等の待遇を受けていたが、進んで台所や掃除の

手伝いをしている。紫乃は、祐里を見込んで、濤子さまから伝授されたお屋敷に

代々伝わる数々の料理をしっかりと教え込んでいた。

「祐里さま、お帰りなさいませ。

 久方ぶりの坊ちゃまとのお時間はいかがでございましたか。
 
 おやつは坊ちゃまのお好きなお茶と苺のタルトの準備ができてございます。

 お茶は紫乃が運びますので、祐里さまはタルトのお盆をお願いいたします」

 紫乃は、祐里の感涙に気付かないふりをして、祐里の歓喜の声に同調した。
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