僕はショパンに恋をした
「そうだろう?」

彼はとても嬉しそうに微笑んだ。

ピアノを弾いている時と同じ顔だ。

「彼女はジーンといってね。私の最愛の人だよ。」

古い写真だった。

まだ若い、白人の女性だった。

「奥さん…ですか?」

彼は、俺を見て首を横に振った。

「奥さんになって欲しいと思った、最初で最後の人だよ。」

それ以上、何を聞いて良いやら、考えてあぐねていると、彼が言った。

「まあ、じじいの昔話はさておき、どうだね?弾きたくなったかい?」

俺は、下を向いて言った。

「レッスン…、したくないんです。」

あっはっはと彼は笑う。

何がおかしいんだ。

少しむっとして顔を上げると、やわらかい笑顔がそこにあった。

「レッスンじゃないよ。そうだな、誰かのために弾くというのはどうだい?」

「誰かの…為…?」

「そう。誰かの為。」

そんなこと思って弾いたことはない。

誰かを思うって、何を?どう思えばよい?

とまどっていると、彼が言った。

「私はね、いつも彼女の為だけにひいているよ。私のピアノを好きだと言ってくれた、彼女のことを思いながら弾いている。」

この人はなんて事ないように、そう言った。

「俺は……。」

何か言おうと、口を開きかけた時、俺の携帯電話がポケットの中でなった。

着信を見ると、母親からだった。

ちっ、と小さく舌打ちをして、財布からお金をだす。

「あの、そろそろ帰ります。いくらですか?」

「今日はごちそうしますよ。」

「いえ、そういうわけには…。」

「つたないじじいのピアノを、聴いてくれたお礼だと思って下さい。」

少し迷ったけれど、頭をさげてお礼を言った。

「美味しいお茶と、ピアノ、ありがとうございました。」

そんな俺に、彼は言った。

「弾きたくなったら、またおいで。八月 桐儀くん。」

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