奥さんに、片想い
気が付くと、自分でも信じられないことが起きていた。涙が、熱い涙が一筋頬を伝っていたのだ。
それは目の前にいる課長も意外だったのか、途端に困惑した表情に固まった。
「あの、直ぐに直しますから。それをこちらにください」
しかしまた彼の顔が強ばる。
「いや、駄目だ。これは僕が責任を持って直しておくから」
「私がします!」
「駄目だ!」
辺りがシンとしたように思えた。
そして当然、千夏も呆然としている。
あの佐川課長が怒鳴った。
背後のスタッフも業務をしつつも誰もが一瞬だけ息を止めたのが伝わってきた。
「今日はもういいよ」
「え……あの」
もう課長は千夏の目を見てくれなかった。
失敗している書類に残念そうに伏せた眼差し。険しい声で課長は容赦なく告げた。
「帰っていい。ここ数日の落合さんはいつもの落合さんではない。一回リセットしよう。今日はもう帰って休むんだ」
真っ白になる。彼の側にいて、彼の役に立つことが千夏の生き甲斐だというのに。
その彼に『要らない、帰れ』と言われている。だが次にはいつもの穏和な彼の、千夏を優しく案じる眼差しが向けられる。
「だからって、もう来るなとか言っているんじゃないよ。いなくちゃ困るから言っているんだ。ここで頑張り続けても、今の落合さんには良いことはない。そう言っているんだ。一度、ゆっくりして明日でも明後日でもまた戻ってきてくれ」
「私、大丈夫です」
「大丈夫じゃないと僕が言っているんだよ。じゃあ、こう言えばいいのか。『課長命令』だって」
そこまで言われたら千夏はもう言い返すことはできない。
千夏にとって課長としての彼の判断が全てなのだから。
「わかりました」
自分で諦めた途端だった。先に少しだけこぼしてしまった涙が、今度は溢れて止まらなくなった。
「落合さん……」
黙って泣きさざめく千夏を哀れむように見つめてくれる佐川課長。
「大丈夫です、私。あの、課長が言うとおり少し休んで、また、また、ちゃんとやりますから」
止めどもなく溢れてくる涙を流すまま、千夏はひたすら呟いていた。
「待っているから。もう、いいよ」
最後は優しい声の『待っている』。嬉しいはずなのに。
もう堪えきれなくなり、千夏はそのまま自分のデスクに向かい、ろくに片づけもしないでバッグを取り出しコンサル室を飛び出してしまった。
『主任――』
『落合主任』
今にも追いかけてきそうな後輩達の案ずる声が背中に聞こえたが。
『そっとしておくんだ』
またそんな佐川課長の声……。