奥さんに、片想い



「帰るんですか」
「うん、大失敗しちゃって。課長に帰れて言われたの」
「あの佐川課長がそこまで言ったんですか」
「そうなの。でも、一番何が悪かったか自分で判っているから。課長の言うとおり、頭冷やすために今日は帰る」

 どうしてか急に千夏は微笑んでいた。
 顔もあげて涙を拭う。そして河野君の顔を見上げていた。

「大丈夫……そうですね」
「うん、有り難う。なんか……失敗しちゃったて自分から言ったらなんか変だけどスッキリしちゃったかんじ」

 本当に涙が止まってしまった。濡れた顔をハンカチでも拭って、もう一度彼の顔を見て『大丈夫よ』と微笑むことさえできてしまう。
 そして彼からも微笑みが返ってきた。

「俺の電話番号、まだ持ってくれています?」
「……うん」
「なにかあったらいつでも。話し相手ぐらいなれますよ。勿論、無理強いはしませんけどね」

 それだけ言うと、彼は『じゃあ』と言って階段を上がっていってしまう。

「有り難う、河野君」

 なのに。返事はなかった。彼の大きい身体もあっという間に階段の影に隠れてしまった。

 おかしな気分だった。他人に『失敗しちゃった。課長に帰れと突きつけられた』と言葉にして聞いてもらった途端、すとんと落ち着いたあの感触はなに?

 それに……。階段を下りながら、千夏は肩に触れてみる。
 まだ、太い指の跡が残っているかのような感触。
 じんじんして痛い感触。そしてそこがなんだか熱い?

「もう、馬鹿力」

 加減、わからないのかしら。彼の大きな手に包まれた自分の肩がすごく小さくか細く感じた。
 肩肘張って生きているそんな女の、華奢で折れそうな骨格。自分自身でそう感じてしまうなんて初めてだった。

 それを彼が力の加減も知らないで握りつぶすかのように……。女の子に触ったこともないような、ぶきっちょな触れ方。でもその力が熱く残っている。


 会社を出て近くにある路面電車の停留所に立つと、濡れた緑の城山から天守閣。曇天に小さく切り取られた青。傘も要らない帰り道になりそう。

 小さな路面電車に乗り込み、がたごとと揺れる中、千夏は家路を辿る。
 その間、千夏がずっと感じていたのはしょっぱい涙の味ではなく、肩にある痛みだった。



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