奥さんに、片想い
バットを手にパンツスーツ姿の女が打席に立つ。
「ええっとですね、バットを持ったら……」
「どうでもいい。私、さっき河野君が打っていた速い球でやってみたい」
「はい? えっと、あれって140キロなんすけど」
わかっている。
「いいの。やってみたいんだから」
「まあ、そういうなら……」
初めてバッターボックスに立つ女の無茶振り。
『絶対打てない』ことが許せない元球児には納得できないようだった。
それでも渋々とそのとおりにセットしてくれる。
「球、来ますよ」
ネットの外から河野君の声。
見よう見まねで構え、千夏は前を見据えた。
……来た! ヒュッと言う音を感じて振り抜いたが、やはり背後でバスッと抜かれた音。
うっそ、見えなかった。
それでも千夏は何度も構え直し、球に向かう。だが同じ事の繰り返し。
「なにこれっ」
「だから言ったでしょ。落合さんはいま、プロ野球の投手を相手にしているようなもんですよっ」
「プロ野球ですって。益々燃えてきたわ。このまま行く」
「もう、なんていうか。……らしいっすねえ」
河野君の呆れた声が聞こえてきた。
さらに千夏の目の前を反応する間もなく高速で過ぎていく白球達。
だけれど、千夏にはその高速で過ぎていくものにゾクゾクしていた。
これを、あの大男は一球も逃さずビシバシと捕らえ打ち上げているんだって。
これが彼が追ってきたもの、これが彼の……彼という男を作り上げてきたもの。
すごい、すごいわ。打てないのに千夏は打席で微笑んでいた。
「やっぱ無理」
球がなくなり、千夏はバットを降ろす。だけれどなんだか胸がドキドキして興奮していた。
「相変わらず強気っすねえ。感心しますよ」
「うるさいわね。もう一度同じのやって。打てなくてもスピードを体感したいの」
「了解です」
もう彼も止めない。千夏の好きにさせようと思ってくれたよう。
打てなくても、千夏はまた打席で構える。
「来ますよ」
来る――。
あら? 今度は球が見えた!?
フォームなんて知らない。とにかく振り抜いてみたら、カキーンという音が自分の耳の直ぐ側で聞こえた。
『え』と上空を見上げると緑のネットに囲まれた夜空と照明の輝きの中に白い球!
「わ! マジで打った」
「えー、うっそ!」
結構飛んでびっくり! 自分でもびっくり!