奥さんに、片想い
河野君も驚いたのか、千夏が呆然と見上げている打席まで駆け込んできた。
「え、うそ。私、140キロ……打てちゃった」
「いえ、今のは100キロです」
はあ? なんですって――?
千夏は目を見開いて絶句した。
「なに、勝手にスピードそんだけ落としてくれちゃっていたの。それじゃあ、球が見えたはずよっ」
「俺、千夏さんにも絶対に打ってほしかったんですよ。千夏さんがスカッと打てるのはこれぐらいから落としていけばいけると思ったんですよ。でもまさか100キロをあんなに飛ばせたなんて。佐川課長だって一度もヒットしていないのにっ」
何故か、彼が興奮している。そして千夏も呆然……。
確かにあれだけヒットしたらスカッとした。
爽快だった。140キロなんて最初から打てるはずはない、そんなわかりきっていること。
でも河野君がこっそりと千夏が打てるように速度を落としてくれたから……。
なんだか。強気で固めた女の意地を、さりげなく除けてくれたようなこの感覚なに? この前からなに、この出会ったことない感覚?
「あのですね、こうしたらもっと打てると思うんですよっ」
興奮している勢いなのか、彼の大きな手が突然がしっと千夏の腰を掴んだのでビクッとする。
でも彼はお構いなしに千夏の腰の位置を決めると、今度は床に跪いて足首を握っている!
「足も開きすぎです。こう肩幅で、それで左右の足の体重移動はこう……」
真剣な顔。でも素直にそれに従う。
「それでバットは傘を持つような感じで、ぎゅっと脇を引き締めるイメージがあるでしょうが、ゆったりと」
足下が整うと、次に河野君は千夏の背後に回ってきた。
一緒にバットを握りしめると……大きな彼に、後ろから大きくつつまれ……。
「そう、ゆったりと。トップはここで決めて、球が来たらこう……引くイメージで……」
大きな身体の彼の胸元にすっぽり収まる小さな自分。
大きな手が迷うことなく千夏の身体に触れていた。
あの時、泣いていた千夏の肩を掴もうとしているのに、迷って震えていた手。
それを思い出していた。でも、野球となったら迷いがない彼の手。あの震えていた手は……千夏のことを、か細い女に見せてくれたあの手は。
「そのイメージで振ってみてください。」
「わかった。やってみる」
持ち方、構え方、足の体重移動のタイミング、それを聞いて千夏は次の球へ向けてバットを構える。
河野君がネットの外に出て行って、千夏を見守っているのがわかる。
「来ますよ」
彼の声に合わせ、バッドを振り抜く……!
『カキーン』とまた鳴った。そして空に高々とあがっていくボール。