奥さんに、片想い
「僕もあの試合は観たけど、あのバックホームは鳥肌だったからね。後から出てきた選手のエピソードがまたね。ライトの選手はノック練習毎の最後に行われる外野からの一本バック-ホーム、実はこれが一度も決まったことが無く、だからこそ毎日毎日その練習をしたがそれでも一度として決まったことがなかった。この土壇場の本番で決まった1球が最初で最後の成功したバックホーム送球。後に人々は、『どんなことがあっても努力を忘れず諦めず、毎日毎日練習した結果、神が彼に微笑んだ』とも言っている」
佐川課長の解説通り。課長もよく覚えているお気に入りのシーンらしく、とても詳しかった。
「で。その80メートル送球をしようってわけなんだね」
「はい。河野君がライトの距離から投げた球が、私のミットに収まったら――」
「結婚する……か。一発勝負?」
「はい。二度目はなしと河野君にも言っています。一球のみ」
「それはまた、ある意味『奇跡』。そうでなければ、結婚など踏み切れないって?」
ハンドルを握っている佐川課長が、大きなため息をつきながら首を振る。
「河野君の肩なら届くと思うよ。試合中の差し迫った判断がない、整った状態での送球ならね。ただね。問題は送球を受けるキャッチャーだ。一度も野球の球を捕球したことがない女の子が、大男が遠くから思いっきり投げた球を一発で捕れるとは思えないんだよ。一発勝負なんて無理だ」
わかっている。だが千夏は引かない。
「たった一球に賭けるから、奇跡なんじゃないですか」
怯まない千夏の意固地は毎度のこと。『ああ、そうだね。そうかもしれない』と、佐川課長も何も言わなくなってしまった。