奥さんに、片想い
イニング4(後半)
公園広場の壁に向かって、ひとしきり球を投げていた河野君が戻ってくる。
「いいですよ」
「一球だけね」
「わかっています。じゃあ、俺。あのあたりに行きます。ちょうどあそこがライトのポジションだと思いますから。千夏さんも準備が出来たら手を挙げてくださいね」
「わかったわ」
二人で段取りを決め、うなずき合う。
ネクタイを外した白いシャツ姿の河野君が背を向ける。ゆったりと歩いて落ち着いている彼を見て、千夏も地面に膝をつき構えた。
そして佐川課長が千夏の背後に、アンパイヤのようにして控える。
「練習なんてしてないよね、落合さん」
「ええ。見よう見まねです」
背後からまたため息。よくそれで勝負に打って出たなと、また言いたそうな課長。でも言っても無駄、彼女らしいと呆れているのも。
「あ、でも。落合さんは僕と違って運動神経良さそうだしな。100キロ打っちゃったんだから」
実際に、スポーツは得意な方だった。だからとてイケルとも思っていない。どんな球が飛んでくるかもわからない。
勝負勝負というけれど、そうじゃない。勝負するなら練習をする。勝てるように。そうじゃない。これは『きっかけ』。捕れたらよし、捕れなかったら……。
『千夏さーん、行きますよー』
広場の向こうにたどり着いた河野君が手を振った。千夏も無言で手を挙げる。
ついにその時が来る――。
彼のグローブに右手が隠れる。ミットを構え、そこに自分のこれからを決める白球があることをイメージをする。
――じっとこちらを見据えている彼。
たった一球、彼にとっても今までの想いを込めた一球になるだろうから、集中しているのが伝わってくる。どんなに長い間でも千夏もミットを構えて待つ。
千夏の背後にある公園駅に、ガタンゴトンとやってきた電車がキキーと停車する音。人々が乗車下車するざわめき。やがて。千夏は河野君がその電車を見ているのを感じた。じっと見ている。
――ピー!
小さな電車のドアが閉まる。車掌の笛の音。
――来る。
そのタイミングを彼が計っていたことを千夏もわかっていた。
遠くの大男が振りかぶる。千夏の意識はミットのど真ん中!