奥さんに、片想い
「課長が言ったとおりです。奇跡は、やはり積み重ねの向こうにあるんだと私も思います。待っているだけでは起こりません。何もない日常になにげなく忘れずに続けてきたことが、ある日なにかの『偶然』が重なって起きること」
奇跡のバックホームはまさにそれだった。
「私も、やっとわかりました」
この愛してきた男性が、いつの間にか本部課長という階段を駆け上がっていけたのも、そういうことではなかったのか。
そんな彼に憧れて、そんな何気ない男性を妻として愛し支えてきた彼女にも憧れて――。
――私もそうなりたい。そうなれる。
球を握りしめ、千夏は先ほど、この球が自分の目の前で力尽きて落ちた場所へと向かう。
バウンドした痕跡があるそこに立ち、千夏は遠くにいる彼に叫んだ。
「河野くーーん。もう一度!」
叫び、千夏が思いっきり腕を振り上げて球を投げる。
でも。今度は力無い女の送球。その球は全然遠くに飛ばずに彼のかなり手前で落ちて転がる。それを河野君がこちらに走ってきて拾い上げた。
「もう一度、やってみよー」
バウンドした位置に千夏は座り込んだ。
つまり距離を縮めたのだ。それを彼は気がついているようだった。
『そこでいいんですかー』
河野君の問いに、千夏はOKサインを掲げミットを構える。
彼がどう思ったか判らない。でも球を持って元の位置に帰っていく。
そしてまた、次の駅ですれ違いでやってきた反対方向行きの電車が公園駅にやってくる。
先ほどと同じ。無言で二人で計りあえたタイミング。駅に停まる電車、ドアが開く音、乗車下車する人の気配。そして、車掌の――。
「来るよ」
背後で見守っているだけの課長にもすでに気づかれている。車掌の笛の音が、この後輩二人が通じ合ったタイミングときちんと見守って気がついてくれていた。
――ピー!
河野君が振りかぶる。