奥さんに、片想い
「支局が違うだけで同じ仕事だからいいんだけれど……」
条件は同じだった。ただ僕と美佳子が通う場所が異なり離れることだけ。同じ市内で勤めるから自宅からも遠くはない。帰る家は一緒なのだから、続けることも可能。それでも美佳子は『辞める』と決意。
僕からは何も言わなかった。彼女がそう決めたなら――としか。
「ごめんね。私も稼いだ方がいいんだろうけど。なんかね、やっぱりここ半年、すごく疲れた……」
どん底と絶頂を一気に体験した半年。十何年勤めてこんなことは初めてだったとよく言っている。それが『若い男の子にほだされ、遊びが前提の駆け引きとも見抜けずに真に受けてしまった』ことが発端だっただけに『自業自得すぎる私の汚点』と美佳子は再々こぼしている。
会社でも、前ほど美佳子は積極的に人と関わらなくなった。少し距離を置いて『会社の人は、所詮会社の人』とかなり拘って割り切っていたぐらい。そんな中で僕一人だけが、彼女の中で『会社の人ではなくなった』。婚約を公表してからも、美佳子は僕との距離にだいぶ気遣っていた。『婚約者だから大目に見てもらっている』とか『私達より手伝ってもらっている』等々言われないよう、かなり神経を尖らせていた。そんな蓄積の結果なのだろう。人と一緒にいるのが苦痛になっているようだった。
彼女が明るくしているから、僕は気づかなかったのかもしれない。僕が思っている以上に傷ついて、たった一人の時には自分で自分を責めたり、そして一人ならば彼等のことも許せずに悔しさで震えていたかもしれない。そんな蓄積が、結婚という機会に溢れ出てしまったのではないだろうか。彼女には休養が必要かと僕は思ったりした。
「気にするなよ。僕の稼ぎは少ないけど、なんとかやっていこう」
「うん。別に贅沢なんて望んでいないから。私、徹平君が側にいてくれたらそれがいい」
なんていじらしいことを。ありふれた女性からの言葉でも、いまはちょっとでも甘い気分になれる結婚間近の男としては感無量の瞬間。
彼女を抱きしめて、柔らかなキスをする。そうしたら彼女が僕の中に溶け込んでくれる。艶やかな黒髪を撫でて、近くに寄らないと解らない美佳子の匂い胸いっぱいに吸い込んで、それで僕も満足する。
僕たちは今、甘くときめく恋人同士、婚約者。そして……夫と妻になるんだ。
なにもいらない。美佳子はそういうが、でも、僕って本当に何も持っていないよ。本当にいいんだよな?
僕たちの新居は郊外にある小さな賃貸マンション。
部屋数は少なく広くはなく、リビングにはテレビとよく見かけるソファーだけ。あとは美佳子のセンスでコーディネート。
自分の好きなカーペットやローテーブルにフラワーベース。どこのカタログにでも掲載されているようなインテリアでそれなりに整えていたが、彼女は嬉しそうにリビングを作ってくれていた。