奥さんに、片想い

 散々な日だった。
 その後、課長は戻ってきても何事もなかった顔でデスクで業務を続けているだけだった。
 その日のコンサル受付時間が終了し受付用電話回線が遮断される。
「徹平、今日はもう帰って良いからな」
 定時に帰れるだなんて僕には珍しいことだった。それでも僕は課長の言葉に甘え、すぐさま荷物をまとめて退出した。
 課長の気遣いに感謝していた。夕方のこの時間までなんとか平静を保つのに精一杯――。本当はあの後、会社なんてすぐに飛び出してしまいたかった。


 ―◆・◆・◆・◆・◆―
 

 車に乗っても、僕は自宅へまっすぐには帰らなかった。
 いつもと違う道を車で走り、郊外にある紳士服店へ向かう。そこで真っ白なワイシャツを買い、汚れたシャツを脱ぎ捨て着替えた。染みになったシャツはそのまま店で捨ててもらった。
 帰る道。信号待ち。フロントミラーに映る僕の口元。切れて赤黒くなっている。これだけは誤魔化しようがない。それでもあんなみっともない染みがついたシャツで帰りたくなかった。美佳子に洗わせたくなかった。僕もそんな情けない姿で帰りたくない。たとえすぐにばれてしまっても、無様な姿は彼女の目に焼き付けたくない。そんな『せめてもの思い』でシャツだけは綺麗にして帰ろうと思った。
 美佳子になんて言おう。そのうちに女同士のネットワークで知られてしまうだろうから、ある程度は話さなくてはならないだろう。そんなこと僕は嫌だけれど、元同僚だから本当にこんな時は誤魔化しようがない。美佳子が不審に思えば、僕が口を閉ざしてもすぐさま調べがついてしまうだろう。

「ただいま」
 新居に帰ると、また今夜も夕飯のいい匂いに包まれていた。
「あれ。徹平君。早いじゃないどうしたの?」
 キッチンからそんな声、彼女がこちらに向かってくる足音。僕はふいに顔を背けてしまう。
「おかえりなさ……」
 彼女の息が止まるのを僕は耳にした。
「それ、口の。どうしたの!?」
「うん、ちょっとね」
 まともに彼女の顔が見れず、僕は俯いたまま靴を脱いであがる。紳士服店で結んだばかりのネクタイをほどきながら、彼女をスッと避けるようにして寝室へ向かった。

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