奥さんに、片想い
「ちょっとね、じゃないわよ。それ。どこかで転んだの?」
『そう。転んだんだ。僕ってバカだよな』と笑い飛ばしたい。そんな嘘でやり過ごしたい。でも、そんな嘘をついて後であの会社の誰かの口から美佳子が聞きつけたら『どうして本当のことを言ってくれなかったのか』と新妻としても気を悪くすることだろう。しかもあの男が殴ったことを黙っていたなんて後になって知る方が美佳子に取っては良い気はしないだろう。
「手こずったクレームがあって。顧客と担当の取り次ぎのことで、営業とコンサルでいざこざしたんだ」
そう言っただけで、美佳子が口元を押さえ愕然とした顔。見る見る間に彼女の顔が青ざめた。
「もしかして。彼が……?」
「まあね。でも完全に彼のミスで、課長も営業部長も所長も僕の判断を擁護してくれたから大丈夫」
「大丈夫って――!」
ほどいたネクタイをクローゼットに戻し、買ったばかりの白いシャツを僕は脱ぎ始める。
「美佳子はなんにも気にしなくていいんだからな」
なるべく、優しく言ったつもりだった。だけれども、肩越しに振り返ると彼女はもう泣いていた。僕と目が合うと彼女がシャツの背に抱きついて泣き出した。
「私のせいなんだわ!」
「ちがうよ」
「あの人。私達の結婚が決まった後に立場が逆転して悪い男みたいにされていたから、徹平君を恨んでいるんだわ。私が、私が、あんな男と関わって、それですぐに徹平君を頼っちゃったから!」
「ちがうよ」
本当に美佳子のせいだなんて思っていない。でも僕はこの時、とてつもなくムカムカしていた。
ああ、いつも通りに。ただ『おかえり』て抱きついてくれる奥さんのお迎えでこの家に帰りたかった。着替える僕の背中で、晩飯のメニューを語ってくれる彼女でいて欲しかった。
なのに今夜は僕と美佳子の間に、あの男がいる。
「私があんな男と関わっていたばかりに。真面目にやっている徹平君にこんなこと。私って、わたしって」
いつになくわんわんと美佳子が泣く。それだけ取り乱しているということ。あの年下男はいつもこうして妻の心を掻き乱す、今でも。そんな落ち着きをなくしている妻が最後に叫んだ。
「私って徹平君の疫病神なのかも!」
ブチッと切れた音。
「疫病神だなんて言うな!」
初めて僕は怒鳴った。会社でも怒鳴ったことなどない。美佳子に妻にもこれが初めてだった。