奥さんに、片想い

 美佳子の涙が止まっていた。
 お前が疫病神だというなら、僕はそんな疫病神にバカみたいに惚れていたことになる。そんな疫病神をあの男からニコニコしながら受け取ったバカ男。そう思うだけで怒りが込み上げた。
 そんなんじゃない。僕はその前からずっと前から美佳子が好きだったんだ。でも僕にチャンスはなかった。チャンスが来たのは彼女が傷ついた時。そこをつけいるように彼女と親しくなった男? そんな縁なのか。それだけの縁なのか。お前が疫病神の自分と結婚したというなら……。お前は自分が落ち目であるのを解って、なにもかも諦めて僕を選んだっていうのか?
 僕の今日の怒りの核心はそこにある!
「徹平君……ごめん」
「……今日の晩飯、なに」
 涙を拭いた彼女が、なんとか明るく努めようと笑顔になる。
「キビナゴの天ぷら」
「え、もうそんな季節なんだ」
「ビールで食べる? それとも吟醸酒にする?」
「ビールでいいよ」
 酒も希にしか呑まない僕だけれど、季節の肴が出た時には呑むこともあった。僕の趣向を分かって妻の美佳子が滅多に呑まない酒を準備してくれていた。
「私ももらっちゃおうかなー」
 涙目なのに笑っている彼女が痛々しかった。
 彼女はなんにも悪くない。ただ僕が。片思いだった彼女を運良く嫁にしてしまったが故に。いっちょうまえに男として、あの彼を意識しているだけなのに……。

 
 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 それから数日後。デスクでコンサル後のデーターを入力していると、シャツを懸命に拭いてくれたパートのおばちゃんがコンサル業務の書類を提出ついでに話しかけてきた。
「徹平君、課長からなにか聞いた?」
「いえ。なにも?」
 あれから課長も何事もなかったように僕には件については話すこともなくなった。その代わり、通路で挨拶を交わす営業部長の様子がちょっといつもと違うことには気が付いていた。
「沖田君と若社長。仕事でのいざこざなんて建前。女性問題でもつれていたみたいよ」
 情報網は天下一品の女性達。その強力な情報収集力に僕は感心しきり、目を丸くするばかり。
「言ったでしょ。これは『若いからと気を緩めた軽いノリでのおつきあい』の成れの果てよ。接待でゴルフとかは良くある話だけど、ことあるごとに、バーベキュー大会にキャンプ、飲み会とかってまるで合コンみたいにやっていたみたいよ。その中で社長と親しい女性と一悶着あって、それで若社長がご立腹。彼の営業態度に仕事の話がぜんぶ信じられなくなったんだって。しかも、沖田君。『また』相手の女の子をその気にさせて結局は知らん顔だって」
 さりげなく織り込まれた『また』という一言。そして僕は淡々と聞きながらも心の中で舌打ちをしていた。『あの男。女の子は自分本位に利用しているだけ。きっと美佳子の時も――』と。

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