奥さんに、片想い

「そんなこと言われても。仕事とは関係ないし……」
「僕には付きあっている彼女がいるんです」
「そう言ってあげたらいいじゃない。崎坂君に好きな子がいると伝えれば、向こうも諦めてくれるんじゃないかな」
「伝えましたよ。なのに『それなら彼女の写真をみせて』とかしつこくて」
「見せたらいいじゃん。それで納得してくれるんだろう」
「……嫌ですよ。例え見せたとしても、断ったことで何を言われるか怖くて」
 それはあるな。と僕も思った。いわゆる『逆恨み』とかいうヤツ?
 まだ二十代の瑞々しい爽やかな佇まいから、困惑し続けた憔悴が滲み出でている。大人の世界に疲れ果てた青年の姿。僕だって同情する。
「僕は単なる係長だし、そんなプライベートの恋沙汰にまで口出しなんかできないよ」
 だが、長身の青年の表情は見るからに追いつめられていた。
「先輩から聞いたんです。あの失礼ですが……。佐川さんの奥さんは在職中、落合さんに酷い目に遭わされたとか」
 でた。ここでそれを出したな、この野郎。と、言ってやりたいが。端正で怜悧ないい男の顔を授かりながらも、すり切れていない純朴さ故の戸惑いが彼の目の奥から見えた。だから僕も無碍には出来なくなる。
「まあね。昔の話だけど」
「そのお話を聞いて、僕も酷いと思いました。自分が若い時には三十歳の女性をバカにして確かな証拠もないのに貶めて。なのに自分が三十歳になったら人に言ったことを忘れて平気な顔で僕に……」
 そこで苦く口ごもる顔を見て、この彼も彼女の途方もない押しの一手に辟易しているのだと察した。その『辟易してしまう程の女の貪欲さ』を考えると、僕の胸が軋む。それはいつか妻が、あの沖田にしたことと同じものなのではないのかと――。
「崎坂君の気持ち、わかるけど。もう少し様子を見てみようよ。そうだな、一週間、僕に時間をくれないかな。一週間後、またこの時間に、あまり女の子達に見られないように来てよ」
「……わかりました。申し訳ありません。本当はこんなことお願いしてはいけないと分かって……しかも残業中に……」
「気にするなよ。その点では嫁さんの姿みてきたから、察するよ」
「有り難うございます。少し気が楽になりました」
 やっと彼らしいといえそうな、凛々しい笑顔を見せてくれた。

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