奥さんに、片想い

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 朝が慌ただしくなった。
「梨佳、早く食べて!! もうママ行くからね。パパ、戸締まりよろしくね!」
 家の主婦が勤めに出ると、朝がこんなに忙しいだなんて知らなかった。
 夫の僕も自分でやれることは自分で。娘も同じく。そしてパパも娘を手伝う。
「パパ、ママにこれ渡すの忘れちゃった」
「まじかよ。どれ」
「今日中に書いて出さなくちゃいけないの」
「わかった、わかった。パパが書く」
 出し忘れたという申し込みプリントを見て、父親の僕が書く。
「ごめんね、パパ。遅刻、大丈夫?」
「大丈夫。パパは融通が利くの」
「係長だから?」
 『まあね』と呟きながらも時計を見て、僕も焦る。ワイシャツのボタンもあいたまま、ネクタイを首にぶら下げたまま。それで僕はプリントを書き込む。
「ね。パパ。ママ、お洒落になったよね」
 その通りで。街中に出勤、そして多少の小遣いが出来たことで、妻もすっかり元の洒落た女性に戻っていた。
「そうだね。でもママはパパと一緒にお勤めしていた時も、今みたいにお洒落で綺麗なお姉さんだったよ」
「それで好きになったんだ。パパ」
「あ、急げ、梨佳!」
 ますますませてきた娘への回答を避けるように僕は時計を指さす。
 娘と慌てて玄関を飛び出し、駐車場で互いの道へと別れた。
「は、しまった。ネクタイ」
 車に乗ってやっとネクタイを首にぶら下げたままだったことに気が付き、僕は慌てて結ぶ。
「まあ、すんなり復帰できたみたいで良かった……」
 研修期間も無事に終え、本部も試験的にロジスティックコール事業を開始。経験者の美佳子は皆のお手本だと課長から報告を受け、僕もほっとしていた。
 美佳子も生き生きしていた。十年前、片思いだった女性が久しぶりに僕の目の前に現れたようだった。

 

 

 泣いている。彼女が泣いていた。
 夕暮れのリビング。僕たちの食卓、テーブル。いつもの『ママの席』で。
 綺麗にスタイリングした長い黒髪の中に顔を隠し、ひたすら俯いて泣いていた。

 

 
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