奥さんに、片想い

「僕は、この支局以外出たことがない世間知らずな男です」
「そうかな。本部ではここは佐川しか任せられないと思っての長年の配属だったようだけどな」
 田窪さんが言っていたとおりだと思った。適任ということでなかなか異動が出来なかったのだと。
「しかし支局ながら、投げ出しもせず、あれだけの女性達をまとめあげ、トラブルも乗り越え、パートだった女性を主任にまで育てただろ。そういう地道で、大きなトラブルも損害も出さずにやってきたことは評価されていたんだよ。俺も鼻が高いもんだ」
 でも。そんな僕を育て上げたのもこの男性。それなら課長がもっと条件が良い部署へと出世すればいいじゃないかと思うのだが。そんな僕の無言の視線を年配者である課長に読みとられてしまう。
「俺は駄目だよ。本部の法人なんて……。そりゃ本部に転属になるのは栄転ではあるけどな。器じゃないと自分で判っているし、」
 そして課長は致し方ないように僕に笑った。『もう歳だから』と。そこは清々しく。ありのままの自分を飲み込むことが出来た男の達観した笑みのように思えた。
「徹平はまだ若いだろ。それに梨佳ちゃんにもこれから金がかかるだろうし。それに美佳子ちゃんもなあ……」
 課長が口ごもる。まるで『働けない妻』だと言いたげに。
 美佳子が自ら選んだ道だった。『弱い妻と言われても良い。それでももう辞めたい』と言ってたった三ヶ月で辞めたことは、この支局にも知れ渡っていた。美佳子のことをよく知らない者達は『やっぱりブランクが大きかったんだ』と囁き、力を抜ききった主婦のやる気の無さを密かに非難していることを僕も肌で感じていた。
 だがそれは妻のことで。僕のことには誰もなにも言わなかった。知っている田窪さんなどは『しようがないね』としか言わず、美佳子が事情を話さないことにも『またなにかあったのかも。言うまでそっとしておこう』などと話し合っていた。
「その節は、せっかくのお話を頂いておきながら、本当に申し訳ありませんでした」
 美佳子が辞めた後すぐに、僕は課長に同じように頭を下げていた。そして今日も。だが課長が前回とは違う返答をした。
「仕方なかったかもな。あの沖田が本部の営業にいたんだから」
 え……?
 僕は課長を見つめ返す。彼がすぐさま目を逸らした。

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