奥さんに、片想い
自宅に帰ると、変わらず夕食を作る匂いがした。覇気はないが淡々と主婦業をこなして過ごしている美佳子。
「あ、お帰り。徹平君」
「うん……」
エプロン姿の美佳子が玄関にやってくる。今までのような溌剌とした笑顔ではないけれど、少しずつ戻ってきている。
そんな美佳子に『あの男がいる本部に行くことになったよ』と告げたならば、どう思うのだろうか。靴を脱ぎながら、僕は小さく溜め息をついた。
「……なにかあったの。徹平君」
「え、なにもないけど」
とてつもなく心配そうな顔の美佳子がそこに立っている。けっこう鋭くて僕は慌てる。細かい仕草を妻はしっかり見届けていたようだ。
「また一人で我慢していない? だいぶ前になるけど『嫌なことがあった』とか急に言いだして、私、あの時びっくりしたんだから」
「嫌なことなんてないよ。仕事は順調」
「本当に。あの……聞きづらかったんだけど……」
美佳子が口ごもった。
「なに。なんだよ。聞くから言ってくれよ」
『その、』と俯く美佳子だったが、一時すると何かを吹っ切るように真っ直ぐに顔を上げ、僕の目を見て言った。
「私があんなふうに辞めたことで、夫の徹平君がなにか悪く言われていないか心配で」
「あはは。なーんにも言われていないよ」
「私が気にしないように。本当は悪く言われていること、隠していない?」
妻だけに、僕が女性にどう接するか良く知っている。そして美佳子自身が一番『自分がどれだけ駄目だったか、どう駄目だと言われているか』知っていて身に染みているのだ。それを毎日、美佳子自身が持つ心のナイフでその身に刻み込んで過ごしているから元気がないのではないか。
靴を脱いだ僕は、その日は寝室へ着替えに向かわず、スーツ姿のままリビングへと足を向けた。美佳子がその後をついてくる。
ダイニングテーブルにビジネスバッグを置いて、僕はそのまま美佳子へ向いた。彼女が構えた顔をしている。夫の僕が、今日はすこし違う様子で、しかも妻だからこそ分かる顔を僕は今しているのだろう。
「そうだよ。美佳子。美佳子は『甘えた主婦だからすぐに辞めた』と言われている。でも僕に直接言う人なんていないよ。遠くで言っているのをたまに耳に挟んだりね」
正直に告げた。妻だから、遠回しに慰めるのはやめた。彼女が遠回しに僕を気遣って思い悩んでいるのが余計に重くしてしまうなら、気にしていること言った方が良い。