奥さんに、片想い

「私は辛かった時に徹平君の胸に逃げ込んできた女だから。口で『好き、愛している』と言っても、徹平君はきっと『言ってくれているだけ』と思っちゃうだろうから、私、『言葉じゃなくて、毎日一緒にいること』で何年もかけて徹平君に信じてもらおうと思っていたの。ずっと、私の片想いでいつか徹平君に『美佳子は本当に僕を心から愛してくれているんだね、嬉しいよ』て感じてもらうよう毎日少しずつ積み重ねていこうと誓ったの。だから、私の最後の恋なの」
 嘘だ! 僕は再度叫びたかった。美佳子が片想い? そんなとんでもない。だから僕も負けずに妻に言った。
「なに言ってるんだよ。僕が美佳子を先に好きになっていたんだから」
「え、そうなの!」
 とてつもなく妻も驚いた顔。僕もそれが意外でびっくり。っていうか……もしかして、僕……。
「僕が美佳子のことずっと好きだったてこと、コンサルに来た時から片想いだったこと。僕、言わなかったっけ?」
「ええ、そんなこと徹平君、一度も言ってくれていないわよ。嘘、そっちが嘘!」
 美佳子も仰天したようで、あまりの驚きに途端に頬を真っ赤にして否定の顔。
「本当だよ。僕のようななんの取り柄もない地味で目立たない男なんて、美佳子さんには対象外だっただろう」
「そ、そうだけど。若い時の女の子はそんなものよ」
「だから僕はずっと……対象外だと思っていたけど。それでも美佳子に片想いをしていたから、あの日、泣いた美佳子をあの店に……」
 嘘、嘘と二人で顔を見合わせた。僕の目と美佳子の目がいつまでも合わさっていた。人混みの賑わいの中、僕たちの黒目が夜明かりに輝いてあの日に戻っていくよう……。もしここが人混みの中ではなかったら。僕はそんな思いで妻の手をそっと握った。美佳子も静かに握り返してくれる。心で僕たちは抱き合って、目の奥では裸になって愛し合っている。そんな胸焦がすひととき。
「あ、梨佳は。梨佳はどうした」
「本当、やだ。あんな大きくなって迷子とかやめて!」
 ハッとした僕たちは甘く漂った空気を振り払い、人混みの中慌てて娘を捜した。
「もう~。なに二人でその気になっているのよ。パパがママとデートしたかっただけじゃん」
 両親が見つめ合う現場を遠くからしっかり観察していたおませの娘に、僕たちが見つけてもらうハメに。
「いこう。お寺の近くにあるパスタ屋さん。梨佳、ボンゴレを食べるんだー」
 僕たちの『好き』は、娘にも伝わっている。
 大人の店だから、たまに連れて行くと梨佳はちょっと背伸びで楽しんでいる。
 パパとママが独身時代にデートをしたお店。いつもそう言う。
 結婚十年目。僕たちは変わらぬ店で変わらぬ毎日の中、変わらぬ好きなメニューを頼んで、変わらぬ笑顔で過ごしていけばいい。
 あんなもの、疫病神にくれてやる。

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