奥さんに、片想い
つやつやとオリーブオイルで光り輝くクリーム色のパスタに、赤と緑の彩り。そして香ばしいガーリックとアサリ貝の潮の香。ふわんとした湯気に包まれて僕の前に置かれた。
「わー。佐川君のボンゴレ、美味しそう」
彼女の前にも、ミートソースが置かれる。
「だから。この店のオススメはボンゴレだって言ったでしょう」
「だって。ミートソースって無難じゃない。私にはボンゴレは冒険なんだもの」
「それって。僕の言葉をまったく信用していないってことだよな」
「そういうわけじゃないけど。失敗したくなかっただけよ」
美佳子がほんとうに羨ましそうに見てばかりいるので、フォークを手にしても僕も食べるに食べられなくなる。
そして僕は決めた。伝票を置いて去っていこうとする店員を呼び止める。
「あの、グラスワインを白で。ひとつ」
『かしこまりました』と店員が去っていく。
そして僕は美佳子の前にボンゴレの皿を差し出す。彼女の不思議そうな顔。
「交換する?」
「え。いいの!」
「僕は何度も食べているし」
「本当にもらっちゃうからっ」
『いいよ、いいよ』と言いながら、僕から彼女のミートソースと交換した。
互いにひとくちずつ、やっと食べる。
「うわー。本当にこのボンゴレおいしー。佐川君、疑ってごめんなさい!」
「うん。たまに食べるとミートソースもうまいなあっ」
互いに、いつもの自分とは違う一皿に舌鼓をうつ。
暫くして、僕が頼んだグラスワインが運ばれてきた。
「こちらに」
そのグラスを彼女の前へとお願いした。また彼女が不思議な顔をしている。
「僕が飲むわけにはいかないでしょう。車を運転して帰らなくちゃいけないんだから」
「え、どうして?」
「酔って忘れる、じゃなくて。一杯でも飲んですこしでも気分をほぐして、ぐっすり眠って『明日も業務を頑張ってください』――」
唖然とした彼女の顔。その一杯が僕にとって『特別』であったのか、またはいつも彼女達を社外で宥めるためにご馳走している一杯のコーヒーと同じ感覚なのか。僕にもわからなかった。そしてきっと彼女も、『いつもの一杯』なのか『特別な一杯』なのかわからなかったのだろう。
でも。やがて彼女が笑ってグラスを手にしてくれていた。
「ほんと、佐川君て。うまいわよねー。こういうこと」
嬉しそうに飲んでくれたので、僕もそれだけでホッとした。
「ちょっと気が楽になった。やっぱり佐川君に聞いてもらって良かった。一人でもわかってくれる人がいれば、それだけで全然違うもんね」
まだ哀しい眼差しはするが、グラスを傾ける彼女にもう涙はなかった。