愛・地獄変 [父娘の哀情物語り]
 そそくさとわたくしの前から離れる妻を追いかけるのですが、だんまりでございます。
店の手伝いでごさいますか?
えぇまぁ、表で頑張ってはおります。
いつものようにお客さまに愛想を振りまいておりますです。
裏で仕込みを続ける私のもとにまで聞こえてまいります。
わざと大声を張り上げているのでございますよ。

 確かに、以前も大声でした。
その明るい声に、私の疲れも吹き飛ぶというものです。
世間話の上手な妻でございまして、よくお客さまを笑わせております。
その笑い声は、お客さまに安心感を与えますようです。
「奥さんと話していると、浮世の憂さがぱあーっとどこかに行ってしまうわ。」と、そんなお言葉を、ちょくちょく頂いております。

 そんな頃に、お饅頭類だけでは先細りになりはしないかと考えまして、妻の反対を押し切って醤油煎餅を作ってみたのでございます。
しかしお客さまのお口に合わなかったようでして。
いえいえ、きっと買ってくださるはずでした。
そしてある夕暮れどき、初めて売れましてございます。
思わず小躍りしてしまうほどでした。
「あなたには負けたわ。
それじゃその、新しく作られたお煎餅を頂こうかしら。」

 妻の押し付けがましさは我慢なりませんです、はい。
きっと売れるはずなのでございます。それが証拠に
「美味しかったわよ、又頂くわ。」と仰って頂けるお客さまが、日に日に増えているのでございますから。
「奥さんの太鼓判ですもの、美味しいはずよね。」などと、お客さまにおべっかを遣わせるとは、まったく不届き千万でございます。
それにしても厭味な妻でございます。
今日も今日とて、これみよがしに大声を張り上げているのでございますから。
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