愛を教えて
卓巳の胸が絶望に染まりかけた同時刻。

万里子は自室のベランダから空を見上げていた。

満月には少し足りない月が、万里子を見下ろしている。晩秋の夜風は冷たく、間もなく訪れる冬を肌で感じさせた。

月は嫌いだった、つい昨日まで。それは万里子に四年前の悪夢を思い出させる。

階段の踊り場で、床に組み伏せられ……やがて、万里子の瞳に映るのは、窓から覗く月だけになった。


(月は知っている、私の秘密を。あの夜、すべて見ていたのだから……)


停電でオーナーズ・スイートの灯りが消えたとき、大きな窓から月明かりが射し込んでいた。

卓巳は万里子を、ガラス細工の壊れ物のように抱き締めた。

不用意に身体が触れないように、ふたりの間に空気の壁を作ってくれた。あれは、裸に近い万里子に対して、卓巳が見せた気遣いだったと思っている。


朝帰りの謝罪と結婚の申し込みに卓巳が口にした言葉を、万里子は繰り返し思い出していた。


(誇り高くて、潔くて、あんなに素晴らしい方が現実にいらっしゃるなんて)


今、万里子が見上げる月に映るのは、昨夜、暗闇の中、見上げた卓巳の横顔。悲しい月が消え、優しい月が万里子の思い出になる。



もう十一時だ。卓巳は帰り際、『また電話する』と言ったが、いつ、とは言わなかった。

卓巳の仕事は終わっただろうか。突然電話をしても、邪魔にならないだろうか。そんな思いを抱え、携帯電話を手に万里子は逡巡する。


――卓巳の声が聞きたい。


万里子は初めて、そんな甘く切ない願いを胸に抱き、卓巳の携帯ナンバーを押した。


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