愛を教えて
「い……や。大したことじゃない。契約だから、だ」


横になった瞬間、万里子の髪がベッドに広がった。
それは数本、卓巳側に越境していた。身体は三十センチ離れていても、数本の柔らかい髪が卓巳の指をくすぐる。


――この髪に触れ、辿っていきたい。


卓巳はそんな衝動に駆られた。
慌てて両手を頭の下で組み、上を向いて寝転がる。

実を言えば、カノンは万里子のために用意した曲だった。
ふたりで行ったレストランでBGMに食事の手を止め、『私、この曲が好きなんです』と嬉しそうに笑った。


(こんな真似、するんじゃなかった)


万里子をベッドの上に誘ったのは迂闊な行動だった。
適当にシーツを乱れさせ、万里子から数本の髪をもらえば済むことである。
隠しカメラや盗聴器がある訳ではない。もちろん、そんなものがあればこの程度の工作で誤魔化せるはずもないが。


卓巳はこのとき、自らの言動と相反する思いを抱え、持て余していた。


――万里子の白い首筋に自分の唇を押し付け、赤い痕跡を残したい。
もし、万にひとつでも、自分の分身がこの場で立ち上がったなら……。嫌がる彼女を押さえつけてでも、ひとつになりたいとすら思う。


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