愛を教えて
卓巳は少し時間を空けてから、忍に尋ねる。


「なぜ、息子の名前を? 偽名でもよかっただろう」

「失礼ながら、俊介はお嬢様にとって初恋の相手だと思います。それに気づいて、わたくしは息子に、大学卒業後は千早家を出るように言いつけました――」


当時の万里子様は初等科を卒業したばかり。
だが数年もすれば……。万にひとつ、万里子の思いが形になれば、俊介が間違いを犯さないとも言えない。
そのため、忍は万里子から俊介を遠ざけた。

忍の知る限り、万里子が淡い思いを男性に寄せたのはそれきりだったという。


「恋する喜びも知らぬまま……女にとって殺されるより辛い思いをされました。なのに、神は無情にも、なんの罪もないお嬢様に堕胎の苦しみまで。手術を受けねばならないと知ったとき、お嬢様は半狂乱でございました。父親の名も知らずに逝くこの子が可哀相だ、と泣かれ……」


忍は、せめて気休めにでもなれば、と俊介の名を書き込み、万里子に見せた。


「混乱しておられましたから、おそらく、記憶に残らなかったのでしょう」

「息子の立場は考えなかったのか?」


母親なら、雇い主の娘より我が子を大事に思うはずだ。それを……。


卓巳の問いに、忍は静かに首を振った。

目も鼻も真っ赤になり、頬に涙の跡は残っているが、すべてを達観したような表情だ。


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