愛を教えて
相変わらず、玄関からは卓巳を呼ぶ声が聞こえる。おそらく、ロンドン本社の社長を任せているジェームズ・サエキだろう。日系だが生粋のロンドン生まれでロンドン育ち、日本語は苦手だと聞いている。


戸惑う卓巳の気配を察したのだろう。万里子は自ら身体を引いた。そして、笑顔を作るように口を引き結ぶ。

「……ごめんなさい。すぐにスーツを」

「こうは思わないのか?」


唐突に卓巳は口を開き、上ずった声で必死に言う。


「僕のテクニックが優れていたから、昨夜、君に苦痛を与えなかったのだ、と」


万里子は目を見開き、瞬く間に零れるような笑顔を見せた。

本気か冗談か、本音を言えば自分にもよくわからない。だが、万里子の悲しい顔を見ずに済むのなら、この際冗談にして笑ってしまえばいい。


「よくも笑ったな。じゃあ今夜、それを証明してみせよう」


おどけた調子で卓巳は言った。


「では、まだ帰国しないんですね? 私はここで、あなたのお帰りを待っていても構わないんですね?」

「何を言ってるんだ? 問題がなければ三日後にはウェールズだ。それまでは市内を……ああ、続きはとにかく今夜だ」


卓巳は軽く万里子にキスしながら、


(これで元どおりだ。社長の椅子はともかく。万里子とは絶対に別れない!)


ほんの少し、伝える言葉が足りなかったのだが、そのことに、卓巳は気づけなかった。


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